ヨーロッパの歴史

第二次世界大戦終結に向け開かれた「ヤルタ会談」とは?わかりやすく解説

ヤルタ会談で話し合われた戦後の処理協定は守られなかった

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ヤルタ会談で米英ソの3ヵ国の首脳が集まって取り決めした内容は、日本が無条件降伏を受け入れたあと、ほとんどが反故にされてしまっています。日本への参戦以外はソ連が協定を守らなかったためです。

ソ連の東欧占拠によって東西冷戦の勃発

ソ連は、第二次世界大戦後、ヤルタ協定を無視してソ連がポーランドを含む東欧諸国に派兵し、東欧諸国に社会主義政権を成立させたのです。その上で、東側の軍事協定であるワルシャワ条約を結び、ソ連軍は東欧諸国に異変が生じた場合にはワルシャワ条約機構軍を派遣できることにしました。それに対して、共産主義の拡散を恐れるヨーロッパとアメリカの西側諸国はNATO(北大西洋条約機構)軍を創設し、対抗したことから東西冷戦が勃発することになったのです。

常任理事国の拒否権によって国際連合は力を発揮できず

第二次世界大戦後にソ連、アメリカも加盟した国際連合が設立されました。しかし、中枢となる安全保障理事会の主要5ヵ国(米、ソ、中、仏、英)に拒否権が認められたことから、東西冷戦後にはソ連が拒否権を連発したのです。そのため、国連の世界秩序に対する調整機能は発揮することができなくなりました。

1989年にアメリカのブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がマルタ会談をおこない、東西冷戦は終結しました。それでも国際連合では、依然としてソ連や中国、あるいはアメリカの拒否権発動があり、国連としての指導力を発揮できていません。

結局、ヤルタ会談は大国のエゴのぶつかり合いだった

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第二次世界大戦後の平和を取り決めするはずであったヤルタ会談でしたが、結局はアメリカ、イギリスとソ連が互いのエゴをぶつけ合う場になってしまったのです。そして、戦争を早く終わらせるための妥協が織り込まれた結果、この協定は戦後に反故にされた部分が多かったと言えます。すなわち、大国のエゴの妥協の産物でした。

現代のG7サミットに似た性格のヤルタ会談

このヤルタ会談は、現在おこなわれているG7サミットと似ており、単に大国のエゴが主張されるだけに終わったのです。現在のサミットはすでに形骸化し、政治ショー化して、その役割を発揮できなくなっており、存在意味がなくなっています。

植民地の独立は認められたが大国の利権絡みの独立で地域紛争は絶えず

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大国のエゴがまかり通った戦後処理で、多くの植民地が独立しましたが、民族中心の独立ではなく、植民地の本国になる大国の利権の都合によって独立させられました。そのため、アフリカや中東では民族紛争が絶えなくなって、難民が多発し、アメリカ、イギリスの都合で設けられたイスラエルの拡張によって悲惨なテロ戦争も続いています。

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