ヨーロッパの歴史ロシア

北の大国ロシアの歴史とは?わかりやすく解説!

世界一大きな国として知られているロシア。 ロシアは日本との関わりも深く、さらには最近までは東側諸国のドンとしても君臨していました。 果たしてそんなロシアはどんな歴史を歩んでいったのでしょうか? 今回はそんなロシアの歴史について見ていきたいと思います。

ロシアの起源の誕生

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ロシアの原型ともいわれる国家が誕生したのは9世紀ごろ。それ以前は国家と呼べる体制はなくただ荒野が続いている不毛な未開拓の土地でした。

850年ごろからは都市としてのまとまりが出来始めますが、この地にロシアとして始めての国家が成立するのが862年。スウェーデンからやってきたバイキングの首長リューリクがスラブ人を征服し、ノブゴロドの地を征服します。

リューリクの死後は政治の中心が南に移りキエフ公国として発展しますが、このキエフ公国はビザンツ帝国と交易を通じビサンツ文化を取りいれキエフは繁栄。ノブゴロドの方も工業や商業が発展しノブゴロド公国となりました。

キエフ公国の滅亡とタタールのくびき

しかし、その社会は農民の農奴化が進み、土地を手に入れた諸侯が地方に分立する状態が続くことになります。キエフ公国はその後一族の内紛が起こって弱体化することに。

さらに泣きっ面に蜂の展開のようにモンゴル帝国のバトゥがロシアはおろかヨーロッパまでもを征服しそうな大遠征軍をロシアに派遣。

モンゴル軍はキエフ公国内を蹂躙し、1240年にキエフ公国を滅亡に追い込むこととなりました。バトゥは1243年に旧キエフ公国南部の地にキプチャク=ハン国を建国。

モンゴルの支配は各地方政権の自治を認め比較的緩やかな支配であったのですが、ロシアの諸国はキプチャク=ハンに納税の義務を負っており、納税や従軍の義務を怠れば懲罰として大軍の侵攻を受けたちまち国が蹂躙される運命となりました。この1240年に始まるモンゴルの支配をロシア史では「タタールのくびき」は1480年まで続くことになります。

モスクワ大公国の誕生

このようにハンによって飴と鞭を織り交ぜた支配を受けるようになったロシアでしたが、そんな中でタタールのくびき内でうまく立ち回って徐々に権力を確立していく諸侯も現れることになりました。

そんな中、モンゴルによってウラジーミル大公に任命されたアレクサンドル・ネフスキーはロシア内の諸侯の中でうまく立ち回ったことにより、孫の代にはロシア北東の都市モスクワを与えられることになります。

モスクワはこの当時は単なる小都市でしたがこの地を与えられたイヴァン1世がウラジーミル大公位を獲得するとモスクワ大公としてロシアの諸侯をまとめる立場となっていき、モスクワをキエフにかわる政治的な中心地にすることに成功しました。

そしてこの諸侯は15世紀にはいるとモスクワ大公国と呼ばれることとなり、ロシアの基礎を打ち立てることになったのです。

モスクワ大公国の発展

こうして発展することになったモスクワ大公国は、西の強国であるリトアニアと戦いながら徐々に領土を拡大。さらにキプチャクハン国が衰退するとついにタタールのくびきから脱出してノヴゴロド公国を併合。モスクワ大公国は一気にルーシの大国として覇権を握ることになったのでした。

さらに、モスクワ大公国のイヴァン3世の時代にはこの時落ち目であった東ローマ帝国最後の皇帝の姪と結婚。こうすることによって1453年に東ローマ帝国が滅亡するとその後継者として正教会の保護を受けることに成功しました。

ロシア語で皇帝を意味するツアーリ(ロシア語でカエサルのこと)の称号もこの頃から使い始めたとされています。

そして時代はイヴァン3世を継いだイヴァン4世の時代に突入することになるのですが、イヴァン4世は強権的な力を用いて貴族の弾圧と領土の拡張を断行。モンゴル系の国家を次々と潰しながら、大貴族の領地を分捕っていきツァーリによる中央集権国家へと生まれ変えさせたのです。こうしてイヴァン4世の時代に入るとモスクワ大公国は北の大帝国へと成長を遂げ、この頃からルーシの国という意味があるロシアという国名を使い始めます。

しかし、イヴァン4世の悪い癖の癇癪で皇太子を殺してしまうなどモスクワ大公国の内政はイヴァン4世の死後はぐちゃぐちゃに。

そしてこのイヴァン4世が残してしまった火種は次の時代で爆発することになるのでした。

ロシアの混乱とロマノフ朝の成立

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イヴァン4世の跡を継いだフョードル1世が子孫を残さずに死去。そのほかに後を継げる男子はいませんでしたのでリューリク朝は断絶することになります。

帝国は後継者の断絶と飢饉などで弱体化。これに目を付けたポーランドはロシアに皇子が存在していると煽り立てて偽ドミトリー1世がポーランドで挙兵。ツァーリを自称しモスクワに侵攻することになります。こうしてポーランドの煽りによって大混乱に陥ったロシア。ロシアはさらにロシアポーランド戦争に大敗北し、ポーランド軍はモスクワを占領することになりました。

この結果、ロシアの帝位にポーランドが深く関わることになり、ロシアは2年にわたり空位状態となってしまいます。しかし、これに抵抗したロシア貴族や国民たちは国民軍を結成して10万の大軍でポーランドと決戦を挑むことに。

結果は激戦の末にロシアの勝利に終わり、ポーランド軍は撤退。モスクワは解放されることになります。こうして最大の危機をのりこえたロシアは翌年1613年にロシアの大貴族であったロマノフ家のミハイル・ロマノフをツァーリに就任させ、ここに1917年まで続くロマノフ朝が成立することになったのです。

ロマノフ王朝は最初は貴族の集合体としての性質が強かったのですが、時代が経つにつれて皇帝による専制政治が普及することになり、アレクセイの時代にはキエフも奪還。キエフはロシアの発展にはなくてはならない地域でもあったため、ロシアはここから大いに発展することになるのでした。

ピョートル1世時代のロシア

ピョートル1世は17世紀末にツァーリとなり、自らヨーロッパ各国の視察を行積極的な西欧化政策を推進した。特に西欧の技術者を呼び入れて産業の近代化に力を入れていくことになります。その力の入れぐあいはすさまじいものでピョートル1世自らオランダへと留学するほど。その結果ロシアの国力は大幅に上昇することになります。

また、ロシアが西欧諸国に互していくためにはバルト海に進出する必要があると考え、当時大国としてなおはせていスウェーデンとの間で北方戦争が勃発。戦争当初はスウェーデンに苦戦したロシアでしたが、戦争が進むに連れて近代化したロシア軍が有利となっていきニスタット条約で北方戦争はロシアの勝利で終結。

この条約によってロシアははカレリア東部、イングリア、エストニア、リヴォニアを獲得し、バルト海への出口を確保。

彼はこの地にモスクワに代わる新たな首都サンクトペテルブルクを建設し1712年に遷都。このスウェーデンとの戦争の勝利によってロシアは「バルト海の覇者」と言われるようになり、ヨーロッパにおいての列強国の仲間入りを果たすこととなりました。

一方、東方ではこの当時荒野が続いていたシベリアへの進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結。清に有利な内容でしたがこれによってアジア方面の国境が決まることになります。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国、そして現在のロシア連邦のもととなっているのです。

ロシアの飛躍の時代

1725年1月28日にピョートル1世は後継者を定めずに死去。その後、後継者として皇后であったエカチェリーナがエカチェリーナ1世として即位しました。

しかしエカチェリーナ1世は僅か2年で死去。さらにその跡を継いだピョートル2世も僅か14歳で病死してしまいます。その後貴族内での混乱もありながら着々と皇帝による独裁を行い始め、1741年にピョートル1世の皇女エリザヴェータが即位しました。

エリザヴェータはピョートル大帝の娘だということもあり、ロシアの近代化に尽力。このころになるとロシアは北の大国として実力を固めていくことになりました。また戦争面ではロシアはスウェーデンとの戦争に勝利して西カレリア全土を獲得。オーストリア継承戦争・七年戦争ではベルリンを占領し、プロイセンを破滅寸前に追い込んたりするなどヨーロッパの戦争に積極的に参加していくことに。

しかし、その七年戦争の最中にエリザベータ女帝が死去すると即位したピョートル3世はフリードリヒ2世を尊敬していたという何とも皇帝としては情けない理由で七年戦争を離脱。

七年戦争をプロイセンの勝利に終わらせる結果となってしまいました。

このようになんとも情けなかったピョートル3世は国内での人気はないとほぼ等しくさらに妻のエカチェリーナ二も愛想をつかされたことによってクーデタを敢行。

ピョートル3世を幽閉して妻のエカチェリーナがエカチェリーナ2世として即位しました。

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