ヨーロッパの歴史

1000年続いた帝都「コンスタンティノープル」の歴史とは?わかりやすく解説!

現在ではトルコ共和国有数の都市として観光地にもなっているイスタンブール。そんなイスタンブールですが、昔はビュザンティオンやコンスタンチノープルと呼ばれており、ローマ帝国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、オスマン帝国の帝都として機能していた世界有数の大都市で知られていました。 この記事ではそんなコンスタンチノープルの歴史を解説していきたいと思います。

ローマ帝国の一都市として

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現在のコンスタンチノープルが史上初めて形成されたのは古代ギリシアの時代。元々この地域一帯はビュザンティオンと呼ばれており、古代ギリシアの植民市として機能しており、さらにはボスポラス海峡を挟んでアジアとヨーロッパを結んでいたため、東西交易の中心地となっていき、植民市の中でも特に発展した都市として知られていくようになります。

さらには古代ギリシアがローマに支配されていくと東側の拠点としてローマの一都市としてなっていくようになりました。

しかし、そんなコンスタンチノープルが首都となるきっかけとなったのが4世紀の頃。

この時皇帝として即位していたコンスタンティヌス1世は324年にビュザンティオンを攻略すると東西交易の中心地なうえ防衛に適していると考えていき、この地域をコンスタンティノポリスとして大々的な都市開発を行っていくようになりました。

その結果、コンスタンティヌス1世が建設したコンスタンティノポリスはローマの一都市としてではなく、ローマ帝国の中心地として成長を遂げていくようになります。

コンスタンティヌス1世はビュザンティオン時代からあった城壁のをさらに拡張してコンスタンティヌスの城壁を築き領域を拡張して、皇帝のいる首都にふさわしい大都市を建設。360年にはアヤ・ソフィア大聖堂も完成しました。

東ローマ帝国の首都として

コンスタンティヌス1世が建設したコンスタンチノープルが東ローマ帝国の首都となっていくのですが、そのきっかけとなったのがコンスタンティヌス2世の時代。

コンスタンティヌス2世は359年にコンスタンティノープルを地方自治都市へと昇格

さらにローマが次第に廃れていくとその代わりとしてコンスタンチノープルが皇帝の住処として利用されていくようになりテオドシウス1世の時代にはコンスタンティノープルが実質的なローマ帝国の首都として機能していくようになります。

そしてテオドシウス1世が亡くなってローマ帝国の東西分裂が確定的なものとなったのちには、コンスタンティノープルは東ローマ帝国における首都として定着していきました。

コンスタンチノープルはゲルマン民族の大移動が活発化していたことを受けてさらなる防御力の強化のために難攻不落のテオドシウスの城壁を413年に完成させました。

テオドシウスの城壁はここから先何度も拡張工事が行われていくことになるのですが、この城壁は何度も東ローマ帝国の危機を救うことになります。

東西交易の中心地として

東ローマ帝国の首都として繁栄を極めていたコンスタンチノープル。しかし、東ローマ帝国の最大判図を作ったユスティニアヌス帝が死去すると東ローマ帝国の領土は一気に減っていくことになります。
7世紀ごろにイスラム勢力が急激に成長を遂げると東ローマ帝国の領土が次第に圧迫。ウマイヤ朝の成立やササン朝ペルシアなどの圧迫によってエジプトを奪われてしまい、さらにはコンスタンチノープル自体も何度が包囲されてしまうことになります。
しかし、東ローマ帝国はコンスタンチノープルの城壁と兵器によって次々と敵を撃退。コンスタンチノープルを死守することに成功しました。そして東ローマ帝国が復活していくとコンスタンチノープルはアジアとヨーロッパを結ぶ東西交易の中心地として発展することになったのです。

コンスタンチノープルの黄金時代

9世紀に入ると最盛期とはいかないものの、コンスタンチノープルの遺跡などを次々と復興させていくようになりました。東ローマ帝国がマケドニア朝によって支配されていくとコンスタンチノープルではギリシャ文化の振興も行われ始めてていき、宮殿や教会なども建設。その結果人口は増加の一途を辿っていくようになりコンスタンチノープルはキリスト教の中で最大の大都市として知られていくようになるのです。

しかし、そのコンスタンチノープルの栄華は長くは続くことはありませんでした。11世紀以降に入ると東西交易の中心地は北イタリアへと変わっていき、そしてその対立はコンスタンチノープルに暗い影を落としていくことになります。

コンスタンチノープルの陥落

東ローマ帝国の一つの転換点となったのが第四回十字軍の時でした。

十字軍とはキリスト教国家が教会や教皇の命令を受けてエルサレムを奪還する軍隊でしたが、第三回以降から徐々に変貌を遂げることになります。

第四回十字軍ではイタリアの都市国家の商人が十字軍を使って海からコンスタンティノープルを攻撃。その結果コンスタンチノープルは陥落してしまうことになり、大都市として発展していたコンスタンチノープルは十字軍兵士よる略奪が行われることになりました。

その後、コンスタンチノープルではイタリアの都市国家の商人たちが建国したラテン帝国の首都となりましたが、その基盤はほとんどなく、コンスタンチノープルは荒廃することになります。コンスタンチノープルにあった財産はヴェネチアやジェノバといった諸都市によってとられてしまい、かつて30万ぐらいいた人口もわずか10分の1にまで減少することになります

最終的にはコンスタンチノープルは東ローマ帝国の亡命政権によって再奪還され再興するのですが、コンスタンチノープルがかつての栄光を取り戻すことはもうありませんでした。

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