理不尽すぎる人類最初の殺人・旧約聖書カインとアベルの物語を解説
「カインとアベル」物語をまずはおさらい
image by iStockphoto
有名な旧約聖書「カインとアベル」の神話ですが、実際にどんなお話だったかもう一度おさらいしましょう。旧約聖書「創世記」第4章に記されたこの兄弟殺し。古今東西の殺人において、この物語ほど「殺人者」に同情してしまう話はないかもしれません。大切な供え物を喜ばれた弟、無視された兄……「カインとアベル」物語をもう一度。
アダムとイブの最初の子どもたち
ときは楽園追放の直後。「光あれ」にはじまる7日間の天地創造の最後に創られた人間の男女・アダムとイブでしたが、楽園・エデンの園の知恵の実を蛇にそそのかされて食べてしまいます。これに怒った父なる神ヤハウェ(YHWH、エホバとも呼ばれる)は2人を楽園から追放すると同時に「産めよ増えよ」と祝福したのでした。これが「創世記」第3章までの流れです。
カインとアベルの物語は「創世記」第4章に記されたお話。エデンの園の知恵の実を食べた後のアダムとイブの間に最初にできた子どもたちです(知恵の実を食したことは、性的快楽を知ったという暗喩であると言われています)。兄のカインは「土を耕す者」(耕作民)に、弟のアベルは「羊を飼う者」(牧畜民)となり、それぞれ仕事に励みました。
やがて2人は各々の仕事の成果を父なる神に供え物をします。これが争いのもととなるのです。
父なる神への捧げ物とその拒絶
カインは農作物、アベルは群れの初子(ういご、つがいの間にはじめて産まれた家畜のこと)と肥えた家畜を供え物として、神の前に捧げます。しかしカインの供え物は神に顧みられず、アベルの家畜のみが喜ばれたのでした。憤り、顔を伏せるカイン。すると神は彼に言いました。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
【引用元:旧約聖書 創世記(口語訳)4章6-7節】
この不可解な神の言葉の後、カインは弟アベルを野原へと誘いだすのです。
「私は弟の番人でしょうか」永久追放とその後
image by iStockphoto
2人の兄弟は野原へと向かいました。ふいにカインはアベルに飛びかかり、弟を殺してしまいます(多くの宗教画では棍棒で殴り殺していますが、聖書にはどのように殺害したのかの詳細な記述はありません)。大地に流れるアベルの血。そこに神があらわれます。
主はカインに言われた、「弟アベルは、どこにいますか」。カインは答えた、「知りません。わたしが弟の番人でしょうか」
【引用元:旧約聖書 創世記 口語訳 4章9節】
このやりとりが、人類最初の「嘘」だと言われています。
しかし、大地に流れたアベルの血が兄カインの罪を神に叫んでおり、カインの嘘は全能の神に見破られました。カインは弟の血でけがした大地に呪われたため、かつてのように畑を耕しても作物が実を結ばなくなってしまいます。さらに神は彼に「しるし」をつけて誰もこの殺人者を殺せないようにしてしまいました。地上の放浪者として去るカイン。のちにノド(流離い、の意)の地へたどり着き、妻を得てエノクという息子をもうけることに。息子と同じ名のエノクという町を作るにいたります。一方でアダムとイブは2人のあとにセツ(セト)という息子をあらたに設けるのでした。
神さまのせい?どう理解すればいい?「カインとアベル」物語
image by iStockphoto
人類最初の加害者/被害者であるカイン/アベル。その悲劇の元凶を作ったのは間違いなく神です。が、「全知全能の神さまはすべてにおいて正しいんじゃないの?」「こんな贔屓ってアリ?」モヤモヤしますよね。それを整理する鍵はどこにあるのでしょう?聖書全編をつらぬく、神が求める人間の姿とは。
アベルのほうが義である理由は「自由意志」の有無?
いえ何度読んでも、謎として引っかかる部分があります。それは「なぜカインの供え物が否とされ、アベルのものだけが良しとされたのか」。これについては「農耕民よりも遊牧民のほうが勝っているという逸話」という解釈もありますが、注目したいのは先にも挙げた、聖書のこの一節です。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
【引用元:旧約聖書 創世記(口語訳)4章6-7節】
カインは(当然の人情ですが)自分の労働の成果を無視した神の裁定に憤り、神の判断に対して異議を唱えるかのように「顔を伏せる」というジェスチャーをとります。そのこと自体も神は叱責するのです。この「神に対する怒り」は「反抗」。言い方を変えると、自由意志の発露です。神に対するとき、自分の感情や意志は罪。この「自由意志は罪」という概念は、アダムとイブの失楽園からはじまり、聖書を最初から最後までつらぬいています。
絶対服従を求める理不尽な神?
旧約聖書・新約聖書を通しで読むと、父なる神ヤハウェには1つの特徴があることに気づきます。それは「絶対服従する人間には優しく、自由意志をもって逆らう者には厳しい」ということです。
その代表格が、ユダヤ民族の太祖・アブラハムとイサクの逸話。アブラハムは年取ってからようやく生まれた息子・イサクを殺し、焼き尽くす捧げ物として供えるように、神から言われます。アブラハムは人気のないところへイサクを連れていき、本当に神のために息子を殺そうとするのです。その信仰の強さを確認した神は天使をつかわし、アブラハムにイサクの殺害をやめさせ、子孫の繁栄と栄光を約束するというこのエピソード。無茶振りですね。
エジプトに戻りたいとブーブー文句を言うユダヤ民族の同朋を引き連れて、神の託宣のままに40年も中東をさまよったモーセや、神の子イエス・キリストも父なる神の「無茶振り」に振りまわされた一生でした。うわ、やだなあ。と思うのが人情ですが、神さまの尺度と人間の定規は違うのでしょうね。