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ヨーロッパ全体を巻き込んだ大戦争「クリミア戦争」をわかりやすく解説

ロシアとトルコの間に広がる黒海。この海に北から突き出るようにクリミア半島が伸びています。クリミア半島は現在もウクライナとロシアで帰属をめぐって争われていますが、今から150年前にはロシアとイギリス・フランス・オスマン帝国が戦ったクリミア戦争の舞台となりました。今回はクリミア戦争の背景・経過・影響などについてわかりやすく解説します。

19世紀中ごろに、なぜクリミア戦争が起きたのか。戦争の背景とは

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1853年から56年にかけて、ロシア帝国はイギリス・フランス・オスマン帝国・サルデーニャ王国の連合軍とバルカン半島やクリミア半島で戦いました。なぜ、ロシア帝国は連合軍との戦いに突入したのでしょうか。戦争に至る前のロシアやオスマン帝国の争い、イギリス・フランスの思惑などについて整理します。

西欧の技術を導入し、急速に強大化したロシア帝国

15世紀後半までモンゴル人の支配を受けていたロシア帝国はヨーロッパ諸国に比べ技術的に後れを取っていました。17世紀末に君臨したピョートル1世は自ら300人の大使節団を率いて西欧諸国を歴訪。ピョートルは軍事・技術・文化の西欧化をはかりました。

17世紀後半に即位したエカチェリーナ2世はポーランド分割に参加し列強の一国として存在感を示します。アレクサンドル1世は19世紀はじめのナポレオン戦争で苦戦しつつもナポレオンのロシア遠征に勝利しウィーン体制の樹立に貢献しました。

ナポレオン戦争後、ヨーロッパで革命の嵐が吹き荒れた時もニコライ1世はデカブリストの乱を鎮圧するなど保守的な反革命体制を維持します。強大化したロシア帝国は明らかに衰退しつつあったオスマン帝国に矛先を向け、領土の拡大をはかりました。

ウィーン包囲に失敗し、衰退期に入ったオスマン帝国

オスマン帝国は15世紀に東ローマ帝国を滅ぼし、首都だったコンスタンティノープルをイスタンブルと改め、帝国の新たな首都としました。以来、オスマン帝国はヨーロッパとアジア・アフリカの3大陸にまたがる帝国として領土を拡大します。

オスマン帝国の最盛期は16世紀中ごろに君臨したスレイマン1世の時代でした。スレイマン1世は1529年に神聖ローマ皇帝カール5世(オーストリア・ハプスブルク家)の都であるウィーンを包囲するなどヨーロッパ世界に強いプレッシャーをかけます。

しかし、1683年に行った第二次ウィーン包囲はオスマン帝国軍の敗北に終わりました。その後、オーストリアの反撃を受け1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを失います。守勢に回ったオスマン帝国は衰退期に入りました。

ロシア帝国とオスマン帝国の争い

ロシア帝国の国力が増大すると、黒海沿岸への拡大を始めます。本格的に黒海沿岸に進出したのはエカチェリーナ2世でした。18世紀後半、エカチェリーナ2世はオスマン帝国と交戦し勝利。ロシア帝国はアゾフやドニエプル川河口などを獲得し、オスマン帝国はクリミア半島を支配していたクリム=ハン国への保護権を失います。

後ろ盾を失ったクリム=ハン国は1783年にロシア帝国によって滅ぼされ、クリミア半島はロシア領となりました。劣勢に立ったオスマン帝国では近代化に着手します。

1828年におきたギリシア独立戦争で、ロシア帝国はギリシアを支援。オスマン帝国はこの戦いにも敗北してロシア帝国にダーダネルス・ボスフォラス両海峡の通行権を与えてしまいます。

ロシアの南下政策とイギリス・フランスの思惑

広大な国土を持つロシア帝国は、国土の大半が高緯度地方にあり冬には結氷して使用できない港が多い国でした。そのため、一年を通じて使用可能な不凍港を求めて領土を南へと広げようとします。こうしたロシア帝国による南方への領土拡大政策を南下政策と呼びました。

エカチェリーナ2世がクリミア半島を確保し、黒海沿岸を手中に収めたロシア帝国は、オスマン帝国首都のイスタンブル間近にあるダータネルス・ボスフォラス両海峡の軍事通行権を狙います。

これに反発したのがオスマン帝国に多額の貸し付けをしているフランスとイギリス本国と地中海を結ぶインドルートを守りたいイギリスでした。イギリス・フランスはロシアの南下を警戒し、オスマン帝国を支援してロシア帝国に対抗させました

 

ナポレオン戦争以降、最大規模の戦いとなったクリミア戦争の経過

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1815年にナポレオン戦争が終結してから40年近く、ヨーロッパでは大国同士の大戦争は行われていませんでした。ロシア軍90万人弱、連合軍60万人前後が動員されたクリミア戦争は多くの死傷者を出す大戦争となります。戦争による死傷者が増大する中、イギリス出身のナイチンゲールは女子看護団をひきいて兵士たちの治療にあたりました。

ロシア軍が南下を開始し、クリミア戦争が始まった

ロシア帝国はオスマン帝国に対し、オスマン帝国領土内のギリシア正教徒の保護を口実に、オスマン帝国への圧力を強めました。1853年、オスマン帝国がロシアの要求するイェルサレムの聖地管理権などを拒否したことから、両国は国交断絶。1853年7月、ロシア帝国軍はオスマン帝国領のバルカン半島に侵攻し、クリミア戦争が始まりました。

1853年11月のシノープ海戦でオスマン海軍がロシア海軍に大敗し、その時のロシア海軍の破壊行為がイギリス・フランスの世論を反ロシアに傾けさせます。その結果、イギリスのパーマストン内閣とフランスのナポレオン3世は本格的にロシア帝国軍との戦いに参戦しました。

また、イタリアのサルデーニャ王国も連合国側としてクリミア戦争に参加します。これは、イタリア統一に向けてサルデーニャの国際的地位を高めたいという首相カヴールの考えによるものでした。

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