第二次世界大戦終結に向け開かれた「ヤルタ会談」とは?わかりやすく解説
ドイツ降伏後のヨーロッパについての論議
当時は米英の連合国軍も、ドイツのライン川に迫っており、ポーランド国境にいたソ連軍は、欧米諸国との直接の対決は考えていませんでした。そのため、ドイツの分割統治の取り決めやポーランド国境の策定、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の処遇やバルカン半島の東欧諸国の戦後処理が議題になります。それらの処理の取り決め交渉がおこなわれたのです。
しかし、実際には、バルト三国や東欧諸国は第二次世界大戦後、ソ連は取り決めに従わず、バルト三国は自国領土にして、東欧諸国は共産主義国家が打ちたてられました。
また、ドイツは東西ドイツに分割され、ベルリンに設けられたベルリンの壁は東西冷戦の象徴になったのです。
したがって、ヤルタ会談で取り決めされたことで守られたのは、密約以外では後の国際連合の安全保障理事会の常任理事国による拒否権くらいでした。よく政府は韓国などに国際間の取り決めは守るべきだと言っていますが、実際には多くの協定、条約が一方的に破られることはいくらでも例があるのです。
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国際連合構想における常任理事国の拒否権問題
当時、大戦後の世界秩序を維持するために、戦前の国際連盟の欠点を改正した国際連合の設立が有望になっていました。ヤルタ会談では、それを前提に後の安全保障理事会になる組織が確認され、主要国(米英ソとフランス、中華民国)が拒否権を持つことが確認されたのです。
これが、後の東西冷戦や現在における世界秩序の不安定さと国連の弱体化に繋がったと言えるでしょう。
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ヤルタ会談でおこなわれた密約とは
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ヤルタ会談がおこなわれた頃、太平洋戦線では、サイパン島を奪ったアメリカ軍を中心とした連合国側がそこから本土への空襲をおこない、有利に立っていました。しかし、日本は本土決戦も覚悟していたため、簡単には無条件降伏に追い込むことが難しい状況だったのです。本土決戦になれば連合国側も大きな被害を負うことが予想されていました。そのため、アメリカはソ連に対して密約を持ち出したのです。
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太平洋戦線へのソ連参戦の密約
アメリカのルーズベルト大統領はソ連のスターリンと会談し、ソ連が日本に対して参戦すれば、満州権益や樺太(サハリン)や千島列島の領有権を認めようとしていました。アメリカは、日ソ中立条約を破棄し、日本に参戦するよう要請したと言われているのです。この内容は、スターリンとイギリスのチャーチル首相との間でも確認されたと言われています。
その結果、ソ連は、ドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヶ月後の8月9日に日本に宣戦布告し、満州、サハリン南部に派兵を開始したのです。それによって、満州の利権は中華民国が拒否して認められなかったものの、サハリン南部と千島列島をわずか1週間で手にいれることになりました。
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ヤルタ会談の密約の影響は現在も存在する
このヤルタ密約は、1946年2月11日に公開されています。そのために、現在でもロシアは北方領土の正当な領有権を主張しているのです。ただし、1956年に当時のアメリカ大統領であったアイゼンハワー政権は、ルーズベルトの個人的な文書に過ぎず、無効としています。また、1951年のサンフランシスコ講和条約でも、アメリカは上院で批准を行う際に、ヤルタ協定のソ連に有利な規定は承認しないとしているのです。
しかし、あくまでもアメリカの主張であり、イギリスは公式見解を出しておらず、サンフランシスコ講和条約も48ヵ国が締結しており、アメリカだけが批准の条件にしているだけでした。
そのため、現在でも日ソ平和条約は結ばれず、北方領土の返還も難しくなっています。
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