日本の歴史明治明治維新

「自由民権運動」とは?権力争いに敗れた政治家たちの復帰運動を解説

自由民権運動で有名なセリフに「板垣死すとも、自由は死せず」という板垣退助が暴漢に襲われた時の言葉があります。この自由民権運動は、明治政府から権力争いに敗れて下野した板垣退助、後藤象二郎などが、江藤新平などの武力による反政府運動とは別に、新しい明治の世の中を作ろうとおこなわれた運動です。この自由民権運動はなぜおこなわれたのか、明治の世の中をどう変えていったのかなどについて解説します。

自由民権運動はなぜ起こったのか

image by PIXTA / 28573847

自由民権運動は、1874年の民選議院設立建白書の提出が契機として始まったと言われています。しかし、実際にその活動が活発化したのは1877年以降、とくに盛んになったのは1880年以降でした。

この明治時代に起きた自由民権運動はなぜ起こったのでしょうか。教科書などでは、板垣退助や後藤象二郎などが議会開設などの要求する政治結社を結成しておこなった運動と説明されています。言論の自由を根拠に、地方などで演説会をおこなったり、新聞を発行して政府を批判したりする運動でした。

しかし、この自由民権運動の当初中心になった人々は、明治6年(1873年)の政変、すなわち、明六の変で当時の明治新政府から離脱して下野した人たちであったのです。このことは以外に知られていません。

当初は、この明六の変で下野した人たちが、政治の場において自分たちの立場を回復して権力の中枢に返り咲こうという動きから起こったのが自由民権運動だったのです。

明六の変で下野した人たちの動きは2つに別れた

明治新政府は、当初は維新後、薩摩藩、長州藩のほか、佐賀藩、土佐藩などの出身者で、維新に貢献した人々と旧公家が中心に形成されていました。

しかし、欧米視察に出掛けた岩倉使節団の帰国を境に政府内で対立が生じます。西洋の新しい世界を見てきた大久保利通や木戸孝允などと、留守を預かって征韓論に傾いていた西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが征韓論などの政策をめぐって対立したのです。結局、使節団を率いた岩倉具視が天皇の栽下を仰いで結局征韓論は否決されたため、国内で留守を守った西郷らは下野することになりました。これは明六の変と言われています。結果として、明治新政府に残ったのは、薩摩、長州の人たちが中心で、薩長藩閥政治と言われたのです(ただし、佐賀藩出身の大隈重信などは残っていた)。

当時の明治新政府は、維新の時に期待された新しい政策は大名体制が残っていたためおこなうことができなかったのです。明治新政府は大名の家臣たちがおこなっていたため、まずは旧体制の大名たちを懐柔して彼らの既得権である地方の支配権を奪うことに集中しました。しかし、武士社会はすでに壊れていたため、利権を奪われた旧武士層などの不満は高まっていたのです。

次のページを読む
1 2 3 4
Share: