律令国家以前の日本
平城京造営からさかのぼること100年。聖徳太子が生きていたころ、日本では蘇我氏などの有力豪族が強い力を持っていました。大王がいる宮は固定されておらず、代替わりごとに新しい宮に移ることがあたりまえ。大化の改新で蘇我氏が滅亡したのち、天智天皇・天武天皇・持統天皇らが大王の力を強め、律令国家への道を整備します。
大王ごとで移転する宮都
藤原京や平城京といった大規模な宮都が建設される前、首都として固定されるような場所はありませんでした。大王の居住地である宮都は、大王の代替わりごとに場所を変えるのが普通です。
例えば、推古天皇は自分が即位した豊浦宮から、小墾田宮に住みました。次の舒明天皇は岡本宮、皇極天皇は飛鳥板蓋宮、天智天皇は近江大津宮、天武天皇と持統天皇は飛鳥浄御原宮といったふうに天皇ごとで宮都の場所は違います。
一人の天皇がいくつもの宮をつくることもありました。天皇がいれば、天皇に従う人々も宮の周辺に住みます。役所としての機能も宮の周辺に置かれました。天皇の代替わりごとに、首都が移転するようなものですね。
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大王家より強力な蘇我氏の存在
古代の日本でもっとも有名、かつ強大な存在だったのが蘇我氏です。蘇我氏は中国や朝鮮から移住してきた渡来人たちの力を活用し、朝廷の実権を握りました。蘇我氏は自分たちの意向に逆らうものを排除します。時には、大王でさえも暗殺し権力を握り続けました。
593年、蘇我馬子の指示で崇峻天皇が殺害されると、女帝である推古天皇が即位。彼女は蘇我氏の勢力を抑えるため、皇族の厩戸王(聖徳太子)を摂政に任命します。厩戸王は蘇我氏と協調しつつも、冠位十二階や十七条の憲法を制定。さらに、中国の先進的な制度を学ばせるため遣隋使を派遣しました。
遣隋使や後に派遣される遣唐使は、当時最先端の政治制度・法令であった律令の知識ももちかえります。しかし、厩戸王の死後、蘇我氏の力はますます増大。蘇我馬子の孫である蘇我入鹿は、厩戸王の子の山背大兄王を殺害してしまいます。
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大化の改新
蘇我入鹿による山背大兄王の殺害は皇族や他の豪族たちに大きな衝撃を与えます。皇極天皇の子の中大兄皇子は蘇我氏の排斥を考えました。中大兄皇子は豪族の中臣鎌足とはかり、蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮におびき寄せ殺害します。この事件を皮切りに、最有力豪族だった蘇我氏を滅ぼしました。
中大兄皇子は新たに即位した孝徳天皇もとで、権力を天皇に集める大化の改新を推進。大化の改新の基本方針を示す改新の詔には、土地と人民は天皇に所属することや戸籍を整備して班田制の実施を目指すことなどが書かれています。天皇(大王)の力はとても強くなり、大規模な事業を実施しやすくなりました。
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壬申の乱
668年、長年ナンバー2として政権を支えてきた中大兄皇子が天智天皇として即位しました。天智天皇は日本最初の戸籍である庚午年籍の作成や近江令の施行など、改新の詔が掲げる目標を確実に実行に移します。その結果、天皇に権力が集中する政治システムがつくりあげられました。
671年、強力なリーダーシップをもった天智天皇が死去すると、誰が次の天皇になるかで跡継ぎ争いが起きます。天智天皇の子である大友皇子と天智天皇の弟である大海人皇子の争いは多くの有力豪族を巻き込んだ大規模な内乱となりました。これが壬申の乱です。
戦いは常に先手を打って事態を有利に動かした大海人皇子の勝利となりました。武力で勝利し天皇の座に就いた天智天皇に逆らうことができる豪族はいません。天武天皇は天智天皇がつくった土台をさらに固め、律令国家への道を突き進みます。この強大な力こそ、平城京のような巨大な都を生み出す原動力でした。
大規模工事を可能にした律令国家の仕組み
天智天皇が設計図を描き、天武天皇やその妃で、のちに即位する持統天皇、文武天皇の時代に形作られた律令国家はどのような仕組みだったのでしょうか。律令国家と平城京はどのようなかかわりがあるのでしょう。律令国家の仕組みや律令国家がおこなった大規模事業についてみてみます。
律令と中央集権国家
律令とは、古代国家の基本的な法律です。律は刑法、令は行政に関する法律でした。律令は古代中国で発達し、隋や唐の時代に整備されます。当時、東アジアで最先端の法律だった律令を日本にも取り入れようという動きがありました。
天智天皇の時代に近江令が、天武天皇の時代には飛鳥浄御原令が作られたとされますが、ともに現存していません。本格的な律令は文武天皇の時代につくられた大宝律令です。
大宝律令では、天皇の下に、神祇官と太政官の二官と太政官の下に八つの省を置く中国風の政治体制が定められました。また、地方は近畿地方を畿内、その他の地域を7つの「道」に編成する五畿七道で区分。これにより、権力が中央政府に集まる中央集権国家がつくられます。