武力闘争から言論による闘争へ
明治新政府を下野した人々は、まず、それらの不満を持つ旧武士層を率いて反乱を起こすようになります。江藤新平の佐賀の乱、西郷らの西南の役は有名ですね。そのほかにも、熊本抻風連の乱、萩の乱、秋月の乱などが起きています。すべて明治維新で中心となった西国で起こっていたのです。
江藤新平などは、下野した後、最初は1874年には民選議院設立建白書などを提出していました。しかし、新政府に受け入れてもらえないとわかると佐賀の乱を起こし、武力での新政府打倒を目指したのです。
政府から大勢の武士を近衛兵として派遣していた薩摩藩では、西郷隆盛が彼らと一緒に下野してしまいます。そのため、山県有朋などが中心となって徴兵制度を創設して、武士などの身分に関わらない兵隊として新しい軍隊を作ったのです。それはかつて長州藩で高杉晋作が創設した奇兵隊をモデルとした制度でした。この新しい軍隊は西国各地の不平武士の反乱を制圧していったのです。刀ではなく、銃などの近代兵器を装備した徴兵制によって生まれた陸軍は、刀による戦争を重視する武士層の反乱を鎮圧していきました。
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武力闘争の限界を悟った板垣退助や後藤象二郎
そして、1877年に西郷隆盛が西南の役を起こしたものの、新しく編成された明治政府軍に敗れてしまったのです。それまでに武力闘争を考えていた板垣退助などは武力による明治政府への反撃は無理とさとります。
土佐に帰って民撰議院設立建白書などを提出していた板垣退助や後藤象二郎らは、武力による政府転覆の野望を捨てて、次の段階へと舵を切らざるを得ませんでした。武力ではなく、言葉や文書による言論で政府批判をして、自分達の権力を取り戻そうと方針転換をします。これが、本格的な自由民権運動になったのです。とくに1881年に設立された板垣退助をトップとする自由党からは本格的な政治結社として国会開設、憲法制定などの要求のほか、政府の政策批判をしたことで有名ですね。自由党という名前は、その後何度も現れますが、一番最初に自由党と名乗ったのは板垣退助だったことは忘れてはいけません。
当初の自由民権運動は結局権力闘争だったとも言える
このように自由民権運動は、当初は実質的に維新で活躍した人々の権力争いだったとも言えるものでした。しかし、自由民権運動はその後も続いていき、明治憲法の制定や帝国議会の開設後も、薩長勢力に抑えられた明治政府に対抗して政党政治を目指す活動につながっていったのです。
この自由民権運動から続く政治の流れを見ていきましょう。
最初に自由民権運動を起こした人々
明六の変後に残っていた新政府では、長州出身の木戸孝允は病気がちで伊藤博文、井上薫、山県有朋らが彼を引き継ぎました。一方、薩摩出身の大久保利通も西南の役後に暗殺され、黒田清隆などが引き継いでいます。佐賀藩出身の大隈重信などは残っていたものの、新政府の主導権は次世代と言われる伊藤博文が握り、長州色が濃くなっていったのです。
このような長州閥を中心とする明治新政府に対して、明六の変で下野した土佐の板垣退助や後藤象二郎らは、武力による新政府打倒の闘争を諦めてしまいます。それよりも議会政治による新しい政治形態によって自分たちが政界に返り咲くことを選択していたのです。