幕末日本の歴史明治明治維新江戸時代

幕末の勇将にして自由民権運動の旗手「板垣退助」の生涯をわかりやすく解説

幕末から明治にかけて、数多くの土佐藩出身者が活躍しました。藩主山内容堂、薩長同盟の立役者である坂本龍馬や後藤象二郎、三菱の創設者である岩崎弥太郎など多くの著名人がいますね。そして、今回紹介する板垣退助も土佐藩出身の人物。明治維新の功労者でありながら、明治六年の政変で政府を去り、自由民権運動の旗手へと変貌を遂げていった板垣退助の生涯を紹介します。

板垣退助は東征軍参謀となり、土佐藩迅衝隊を率い指揮官として活躍した

image by PIXTA / 14708710

土佐藩上士の家に生まれた板垣退助は、薩摩藩との密約である薩土密約を結ぶなど、土佐藩内の討幕派の主導者となっていきます。戊辰戦争では土佐藩の主力部隊である迅衝隊の指揮官として活躍。新撰組を甲州勝沼の戦いで打ち破り、その後の会津戦争などでも活躍を見せます。明治政府では木戸孝允や西郷隆盛らとともに参与となるなど土佐藩の代表を務めました。

板垣退助の生い立ちと少年時代

板垣退助は1837年に土佐藩上士である乾家に生まれました。乾家の祖先は武田信玄家臣の板垣信方とされています。乾家は土佐藩祖である山内一豊が静岡県の掛川城主だった時代から山内家に仕えた家柄でした。

少年時代、勉強よりも体を動かす方が好きだった退助はわんぱく小僧で母を困らせます。退助はのちに、母からは、弱い者いじめのケンカはしてはならないことや、卑怯な言動をして家の名を汚してはならない、といったことを教えられたと述懐しました。

上級武士と下級武士の身分差が大きかった土佐藩にあって、退助は下級武士に対して寛大な態度をとります。母からの「弱い者いじめをするな」という教えのたまものかもしれませんね。

土佐藩内の討幕派として影響力を増す退助

1856年、退助は喧嘩が原因で4年か蟄居を命じられてしまいます。この時、退助が蟄居を命じられたのは神田村(現在の高知市神田)でした。蟄居の身であったため、家督相続も危ぶまれていましたが、許されて後、家督を相続します。

1860年、退助は土佐藩の参政であった吉田東洋に認められ、藩の役職に就任。吉田東洋は藩主山内容堂の信任を受け、藩政を動かす実力者でしたが、開国論者だったため、尊王攘夷を唱える土佐勤皇党の襲撃にあい殺害されてしまいました。

退助自身は倒幕・尊王攘夷を目指していたためか、吉田東洋とは距離をとっていたようで、巻き込まれずに済んだようです。退助は江戸や京都で活動しつつ、討幕派の薩摩藩と接触。1867年5月、退助は西郷隆盛らと会談し、戦となった時に土佐藩兵を率いて薩摩を助けるとする薩土密約を結びます。

戊辰戦争で軍人として活躍する退助

1867年10月14日、討幕派に追い詰められつつあった将軍徳川慶喜は、土佐前藩主山内容堂が提案する大政奉還を採用しました。大政奉還の原案は坂本龍馬が考えた「船中八策」にあります。龍馬の原案を山内容堂に提案したのが後藤象二郎でした。

大政奉還は平和的に討幕を実現しましたが、徳川家の力は温存されます。この旧幕府勢力と薩長を中心とする新政府が衝突したのが戊辰戦争でした。戦いが始まると退助は迅衝隊を率いて上京。中山道を進み、1868年3月に甲府城に入城しました。

この少し前、退助は名字を乾から板垣へと変更します。甲斐・信濃といった旧武田氏の領土を進むにあたり、板垣信方の子孫だとアピールしたほうが良いという岩倉具視のアドバイスに従ったためでした。板垣は甲州勝沼で大久保大和(近藤勇)率いる甲陽鎮撫隊(新撰組などで編成)に勝利。さらに、北関東や福島県方面でも勝利を重ねました。

次のページを読む
1 2 3
Share: