征韓論の背景
戊辰戦争に勝利した明治政府は新しい政治の仕組みを整えるとともに富国強兵を国是として国内改革を行いました。朝鮮では大院君による鎖国・攘夷政策が行われます。朝鮮が日本の開国要求を拒否したことで征韓論が高まりますが、実は、明治以前にも征韓論という考え方はありました。
日本の急速な近代化と外交関係の整備
1868年から1869年、戊辰戦争を戦いながら明治政府は様々な施策をおこないます。五箇条の御誓文で国政の方針を示し、政体書で政府の仕組みを公示。明治天皇を江戸に移し東京と改称するなど時代は大きく変わりつつありました。
1869年に版籍奉還を実施し土地と人民の支配権が天皇・政府にあることを再確認します。1871年、御親兵を編成し政府固有の武力を確保したうえで廃藩置県を断行。これにより、江戸の幕藩体制は過去のものとなります。同時に工部省を新設、お雇い外国人の力を借りながら産業を育成する殖産興業政策を実行しました。
また、北方防備の必要性からも新政府は北海道に開拓使を設置し国境問題にも着手します。さらに、清国との間で日朝修好条規を結ぶなど外交面でも新しい動きがみられました。
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朝鮮の国内事情
朝鮮では1864年から1873年まで大院君が政権を握っていました。大院君は朝鮮国王高宗の父です。大院君は極端な排外・攘夷主義の政策をとっていました。
1866年、フランス人神父やカトリック信者8000名を捕らえて処刑するキリスト教徒の大弾圧を実行します。これに怒ったフランス艦隊が江華島に侵攻した時、朝鮮軍は江華島を守り抜きフランス艦隊を撃退することに成功しました。
同年、アメリカ船シャーマン号が通商を求めて朝鮮国内の大同江をさかのぼってきたときも鎖国を維持するとしてシャーマン号を焼き払います。
これらの出来事から、大院君は鎖国政策の維持は可能であると考え、諸外国からの開国要請には全く応じようとしなかったのです。
明治新政府が新政権の樹立と国交樹立を呼びかけた時も、大院君は日本からの国書が江戸幕府と異なることなどを理由に国交樹立を拒否しました。