- まずは『竹取物語』がどんな話か、思い出しましょう!
- かぐや姫を発見~5人の求婚者
- 帝からのアプローチ~月の使者たち迎えに来る
- かぐや姫からの贈り物~富士山の由来
- 『竹取物語』の謎に迫る!
- キーワード1「成立年代と作者」 謎に包まれた成立
- キーワード2「元ネタ」 もとになった話がある
- キーワード3「入手困難な宝物」 かぐや姫が求婚者に依頼した宝物
- 石作皇子→「仏の御石(みいし)の鉢」
- 車持皇子→「蓬莱(ほうらい)の玉の枝」
- 右大臣阿倍御主人→「火鼠の裘(かわごろも)」
- 大納言大伴御行→「龍の首の珠(たま)」
- 中納言石上麻呂→「燕の子安貝」
- キーワード4「かぐや姫が地上に来た理由」 なぜ月の人間が地上へ降ろされたのか
- キーワード5「海外のかぐや姫!?」 似た話が中国に
- 物語はこれからも伝えられていく
この記事の目次
まずは『竹取物語』がどんな話か、思い出しましょう!
「かぐや姫」の話は大体覚えていても、『竹取物語』を完璧に覚えている人は少ないのではないでしょうか?「かぐや姫」はかぐや姫が月に帰ってしまって終わりとなりますが、『竹取物語』にはその後があるなど、「かぐや姫」は意外と省略されたお話なのです。少し長くなりますが、あらすじを書きますので忘れている方は読んでみてくださいね。
今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。
ー『竹取物語』冒頭
かぐや姫を発見~5人の求婚者
昔々、竹取で生計を立てていたおじいさん(作中では翁(おきな)と呼ばれます)とおばあさん(同じく嫗(おうな)と呼ばれます)がいました。ある日山で光っている竹を見つけ、割ってみると、その筒の中には赤ちゃんがいたのです。おじいさんはそれから竹の中にある黄金を何回も見つけるようになり、とても裕福になります。女の子は3ヶ月ですっかり年頃に、大きくなりました。女の子は「なよ竹のかぐや姫」と名付けられます。
かぐや姫の美しさは噂になり、さまざまな人が彼女を妻にしたいと望むようになりました。たくさんの人がかぐや姫を一目見ようと家の周りに集まりましたが、最終的に残ったのは5人。石作皇子(いしづくりのみこ)、車持皇子(くらもちのみこ)、右大臣阿倍御主人(あべのみうし)、大納言大伴御行(おおとものみゆき)、中納言石上麻呂(いそのかみのまろ)です。かぐや姫はおじいさんを通じて、彼らに試練をあたえます。それぞれに宝を持ってくるように頼んだのです。結局、かぐや姫の難題に答えられたものはだれもいませんでした。
帝からのアプローチ~月の使者たち迎えに来る
そんな折、かぐや姫のことが帝の耳に。おじいさんは「官位をやる」と言われて大喜び。かぐや姫は帝に会うことを拒絶しますが、不意をついて彼女の家に入ります。帝はかぐや姫の美しさに心を打たれ、連れて帰ろうとしたところ目の前でぱっと消えてしまいました。それでも諦めない帝は、かぐや姫に対して一途に手紙を送ります。
帝と和歌を交えた文通をするようになって3年、かぐや姫は月を見てぼうっとすることが多くなりました。やがては泣くようになり、おじいさんがどうしたのか尋ねると、「8月15日の満月の日に私は月の都へ帰らなければならない」とのこと。これを聞いた帝は迎えのものに対抗するため、軍勢を派遣します。しかしその努力もむなしく、不思議な力によってかぐや姫はいとも簡単に迎えのものたちのもとへ渡ってしまいました。
かぐや姫からの贈り物~富士山の由来
かぐや姫を手放したくないおじいさんは、泣き崩れます。話せる様子でもないので、かぐや姫はおじいさんに手紙を残しました。「天の羽衣(着ると人間の感情が失われる)」を着る前に、帝へも手紙と歌をしたためます。天の羽衣を着たかぐや姫はすっかり別れの悲しさをなくしてしまい、月へ帰っていきました。
手紙を読んだ帝は悲しみ、手紙に添えてあった「不死の薬」があってもかぐや姫がいないのでは意味がない、ということでその薬を焼いてしまうことにします。その焼いた場所というのが、日本において一番高い山。「不死の薬」を焼いたから、「富士山」と名付けられました。
『竹取物語』の謎に迫る!
『竹取物語』は、日本において仮名で書かれた最初の物語とも言われます。仮名が誕生するまでの文書は、すべて中国から伝来した漢字で書かれていました。仮名というのは、「安」→「あ」など、漢字を崩して作られた文字。平仮名が誕生したのは、9世紀〜10世紀ごろと考えられています。当初、仮名文字は女性が使うもの、男性が使うとしても公的な場では使用しないものでした。平仮名が使われた最初期の文学作品として『竹取物語』以外で有名なのが、『土佐日記』。934年ごろ、紀貫之によって書かれた日記文学。紀貫之は男性ですが、女性のふりをして執筆しているんです。
キーワード1「成立年代と作者」 謎に包まれた成立
謎の多い『竹取物語』。いつごろ成立したかというのもはっきりはしていません。ただ、あの有名な『源氏物語』に『竹取物語』についての言及があることから、10世紀中ごろまでには存在していたとされます。またその作者についても、長年議論が交わされてきました。作者像として浮かんでくるのは、上流階級の人物。当時は識字率がまだ低かったのです。そして、当時の権力者への批判的要素が物語内にあるため、藤原氏一族に属していない人物であったと考えられています。
具体的な人名を出すと、『土佐日記』の紀貫之や、学問の神として有名な菅原道真など。いずれにせよ、『竹取物語』は豊富な知識を持った人物によって書かれた物語なのです。
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