自由民権運動に参加した群像
自由民権運動に入る前に、後藤象二郎らが土佐に立志社を設立し、さらに大阪に愛国社も設立されて全国に広まっていきます。ところが、板垣退助が参議として新政府に復帰したり、西南の役にからんで土佐出身者の幹部が逮捕されたりしました。そのため、士族を中心とした権力闘争としての自由民権運動は一時的に後退を余儀なくされたのです。その背景には、政府も新聞紙条例や集会条例を制定してそれらの活動を抑えようとしたこともありました。
しかし、1878年に愛国社が再興され、さらに1880年に国会開設期成同盟が結成されるころになると、自由民権運動は不平士族だけではなくなっていきます。当時苦境に追い込まれていた農民層や産業革命の波の中でひどい労働環境に苦しんでいた労働者層からの参加者も増えていたのです。それは、ある意味、明治新政府による教育改革の成果でもあったと言えるでしょう。
自由民権運動の思想バックボーンは中江兆民とルソー
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このときに、自由民権運動の理論的根拠を提供したのが、土佐出身でフランスにも留学した中江兆民でした。兆民は東洋のルソーと言われ、東洋自由新聞を発行して、フランス革命の研究やルソーの「民約論」を翻訳したりしていたのです。この中江兆民の自由の権利の思想やフランス革命などの市民運動理論をバックボーンとして自由民権運動は展開されたと言えるでしょう。
自由民権派の武器は集会、新聞だった
自由民権派の運動は、当初は演説集会を各地で開くことが中心でした。しかし、明治時代に入って発展した新聞などの紙媒体を使った運動も取り入れられ、自由民権派は新聞社を設立して主張を展開していくようになっていきました。
これに対して、明治新政府は既に述べたように新聞紙条例、集会条例などを発布してこれらの活動を抑えようとしました。しかし、すでに不平士族だけでなく、広く国民の間に浸透した自由民権運動は簡単に押さえつけることが難しくなっていったのです。
1880年代に入って政治的な目標が定まり、本当の意味の政治活動に
自由民権運動が大きなうねりとして高まったのは、1880年でした。1880年に起こった事件には、北海道開拓使長官だった薩摩出身の黒田清隆が、開拓使官有地の払い下げに絡んだ汚職で辞職を余儀なくされます。国民の批判が高まったため、伊藤博文は10年後に国会開設を約束(国会開設の勅諭)せざるを得なくなりました。
また、国会開設期成同盟もそれに合わせて活動が活発化し、自由民権運動は大きく盛り上って、国会開設期成同盟には多くの民権派、政党が集結することになったのです。また、政府内の権力争いに破れた大隈重信らが1881年に明治十四年の政変で下野します。その上、自由民権運動側に参加するようになり、立憲改進党を設立すると自由民権派はさらに盛り上がるようになりました。
民権派は、三大事件建白運動として、朝鮮半島での後退やノルマントン号事件による不平等条約改正、地租軽減、言論集会の自由などを主張し、政府を徹底的に批判したのです。
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自由民権運動の停滞が生じる
しかし、明治十四年の政変で大隈重信らが去ったことで、政府内は反主流派がいなくなり、伊藤博文を中心に強化されたことで、自由民権運動に対しても反撃に出ます。
自由党の板垣退助を取り込んで後藤象二郎と仲違いをさせたり、下野した大隈重信が外務大臣として政府に取り込まれたりしたのです。これによって、自由民権運動の内部分裂を誘います。そのため、運動そのものが壁にぶちあたって解散を余儀なくされてしまいました。
不満から日本の将来を見据えるようになった本格的な政党活動へ
いったん分裂した自由民権運動でしたが、1886年には星亨らによって大同団結運動がおこなわれるようになり、自由民権運動は再び盛り上がるようになります。憲法制定や帝国議会が現実のものになったことから、権力争いではなく、しっかりした政治的主張、理論根拠を持つ政党として成立するようになったのです。