- 第二次世界大戦の終結と冷戦の始まり
- 冷戦の始まり、ヤルタ会談
- ソ連の勢力拡大とトルーマン=ドクトリン
- チャーチルによる鉄のカーテン演説と東西ドイツの成立
- 中華人民共和国の成立と朝鮮戦争
- 米ソの「雪解け」と再緊張
- フルシチョフによるスターリン批判と「雪解け」
- 米ソによる核開発競争と宇宙開発競争
- 世界に核戦争の危機を実感させたキューバ危機
- 第三世界の台頭
- 冷戦の変質と終結
- 同じ社会主義国だったソ連と中国の対立
- 緊張緩和(デタント)と新冷戦
- ベトナム戦争の敗北とレーガン政権下の双子の赤字
- ブレジネフ時代のソ連の停滞とアフガニスタン侵攻
- 冷戦を終結させたマルタ会談
- 冷戦終結後、ソ連は崩壊しほとんどの社会主義政権が消滅した
この記事の目次
第二次世界大戦の終結と冷戦の始まり
第二次世界大戦の末期、連合国の首脳が黒海沿岸の保養地であるヤルタに集まります。ヤルタ会談でアメリカのローズヴェルト大統領は米ソ協力を重視するあまりスターリンに大幅な譲歩をしました。ローズヴェルトの死後、大統領となったトルーマンはスターリンと対決。冷戦が本格的に始まります。
冷戦の始まり、ヤルタ会談
ドイツの降伏も間近と考えられていた1945年2月、ソ連領のヤルタで連合国の首脳が会談しました。参加したのはアメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリンです。
米・英・ソの三国は第二次世界大戦後戦後処理について話し合いました。会談では国際連合の創設とドイツ降伏後は米英仏ソの四カ国で分割占領すること、ポーランドの政府は選挙によってえらばれるべきこと、ソ連がドイツ降伏の三か月後に対日参戦することなどが定められます。
会談の中でローズヴェルトはソ連の対日参戦を引き出すため、ソ連に対して大幅に妥協しました。また、交渉の中でスターリンとチャーチルが激しく対立。イギリスとソ連の相互不信感が高まります。
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ソ連の勢力拡大とトルーマン=ドクトリン
1945年8月15日、日本が降伏したことにより第二次世界大戦は終結しました。大戦後、アメリカとソ連は対立を深めます。そして、米ソ両大国は互いの陣営の参加国を増やし、強化することに血道を上げました。
1947年、ソ連はコミンフォルムを結成します。コミンフォルムはソ連共産党を中心にヨーロッパ8カ国の共産党が参加する国際組織となりました。東ヨーロッパ諸国は社会主義国家となり、ソ連を中心に団結していきます。
一方、アメリカはソ連の拡大を阻止すべく、トルーマン=ドクトリンを発表。ソ連やその衛星国となった社会主義国を敵視し、封じ込める戦略をとります。トルーマンはマーシャル=プランで西欧諸国を支援し、NATOを結成して西ヨーロッパの軍事力を強化しました。
ソ連はNATOに対抗するため、ワルシャワ条約機構を結成。米ソ両国を中心とした東西両陣営がにらみあう冷戦が激化していきます。
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チャーチルによる鉄のカーテン演説と東西ドイツの成立
1946年3月、イギリス前首相のチャーチルが訪米中、一つの演説を行いました。「バルト海のステッチンからアドリア海のトリエステまで、ヨーロッパ大陸を横切って鉄のカーテンが下ろされた。」チャーチルの言わんとすることは、ソ連が東ヨーロッパの社会主義国をコントロールし、西側と対立しているということです。
鉄のカーテンは分割占領されていたドイツをも分断しました。1949年5月、米・英・仏の占領地域にドイツ連邦共和国(西ドイツ)ができると、翌月、ドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立が宣言されます。分割占領されていたベルリンも米・英・仏の占領地域である西ベルリンとソ連の占領地域である東ベルリンに分断されました。のちに、西ベルリンと東ベルリンの間にはベルリンの壁が建設され、東西の分断が固定化されます。
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中華人民共和国の成立と朝鮮戦争
1945年、日本が降伏し日本軍が中国から撤退すると毛沢東率いる中国共産党と蒋介石率いる国民党が内戦を再開します。毛沢東のバックにはソ連が、蒋介石のバックにはアメリカがつきそれぞれの陣営を支援しました。
内戦の当初は兵数・資金力などに勝る国民党軍が優勢でした。しかし、ソ連の支援を受けた共産党軍は徐々に反撃。三大戦役とよばれる激戦に勝利した共産党軍が形勢を逆転。1949年に毛沢東が北京で中華人民共和国の成立を宣言するに至ります。蒋介石は台湾へと逃れ1950年に中華民国総統に就任。アメリカが台湾を支え続けました。
1950年、朝鮮半島でも北朝鮮と韓国が衝突する朝鮮戦争が始まります。北朝鮮の攻撃に対し、アメリカなどは国連軍として韓国に加勢。一時は北朝鮮を中国と北朝鮮の国境付近まで追い詰めます。しかし、中国軍が北朝鮮に味方して介入したため、戦線は北緯38度線で膠着しました。朝鮮戦争は1953年に停戦し今に至ります。
米ソの「雪解け」と再緊張
1953年、ソ連の指導者スターリンが死去しフルシチョフがソ連の指導者となりました。フルシチョフはスターリン批判を行い、西側と平和共存する道を模索します。これにより、米ソの緊張は一時的に緩和しました。しかし、キューバ危機が起きたことで米ソの緊張は再び高まります。