ドイツ

今こそ知りたい「ベルリンの壁」の歴史~建設から崩壊まで詳しく解説!

ベルリンの壁とは1961年から1989年まで、ドイツの現在の首都とされている北東部の都市・ベルリン市内にあった壁のことです。日本の歴史が昭和から平成へ年号が移った年の11月、ドイツでは長年国を分断していた大きな「壁」が取り払われるという歴史的な出来事が起きていました。ベルリンの壁とは何だったのか、改めて歴史を振り返ってみたいと思います。

ベルリンの壁の歴史(一)東西対立と冷戦時代

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20世紀中盤から後半、ドイツ北東部にある大都市・ベルリンには、市の中央を縦に分断するように、長さおよそ155㎞もの高い壁が存在していました。なぜベルリンにそのような壁が作られることになったのか、時代背景と共に歴史を紐解いていきましょう。

第二次世界大戦の敗北とベルリン宣言

第二次世界大戦末期、ナチスドイツは大敗し、無条件降伏を受け入れます。そしてドイツの国土は、1945年6月5日の「ベルリン宣言」により、アメリカ、ソビエト連邦、イギリス、フランスの4か国によって分割統治されることになりました。ドイツの東側をソビエト、北部をフランス、北西部をイギリス、そして南西部をアメリカと、強国に統治されることになったドイツ。首都ベルリンもこの4か国によって、ほぼ同じような配置で統治されることになります。

しかし、ベルリン市のある地域は既にソ連の統治下にありました。そのため、ソ連の統治地域の中に、イギリス、フランス、アメリカの統治地区がぽつんと飛び地のように存在する、という、きわめて異例な状況となってしまったのです。

ベルリンの壁というと、ドイツを東西に分断する壁というイメージをお持ちの方も多いと思います。しかし実際には、ドイツではなく「ベルリンを東西に分断する壁」のことだったのです。

生活格差が……米ソ対立の余波

形としては、ソ連主導の社会主義地域(ドイツ東側)と、イギリス、フランス、アメリカ主導の自由主義地域(ドイツ西側)に分かれたことになります。ドイツ領土が東西に分断され、さらにその東側に位置する首都ベルリンも東西に分断されました。社会主義地域に囲まれるように自由主義地域が小さくぽつんと存在するという、非常に複雑な状態になります。しかし当初はまだ、ベルリン市内の東側と西側の行き来は可能でした。

戦後、アメリカとソ連の対立関係は日に日に激しさを増していきました。両国の関係は、東西に分断されたドイツ国内にも混乱をもたらします。

米ソの力が増す一方で、ヨーロッパ各国でも様々な動きがありました。「米ソに対抗できる強い欧州を再び」との声が高まり、様々な政策が打ち出されていきます。ドイツ西側では新しい貨幣を導入。当然、ベルリン市内の西側でも新しい経済政策が始まり、同じ市内でも生活格差が生まれるようになります。

豊かな暮らしを求めて市の西側へ移動する人も少なくなかったようです。

ベルリン封鎖と東から西への人口流出

ソ連がこの状況に警戒を強めたのは言うまでもありません。人や経済の西ドイツへの流出を食い止めるべく、ベルリンを封鎖。1952年には東西の境界線が遮断されます。しかしまだ、地下鉄や高速道路などの交通網は生きていました。社会主義体制に不満を持つ人の数は増え続け、東ドイツから西ドイツへの亡命者も日に日に増加。1953年の亡命者は年間30万人を超えていたといわれています。

単なる人口の流出だけでなく、富裕層や技術者、医者などの亡命は、東ドイツにとって大変な損失でした。1954年以降も年間10万から15万人もの人が東から西へ亡命をしています。

背後では、アメリカとソ連の駆け引きが続いていました。イギリス、フランスもそれぞれ、ドイツとは第二次世界大戦で敵同士となった間柄。互いに物理的な戦争は避けたいという思いはあるものの、各国の思惑が交錯します。

東ドイツとソ連はついに、1961年8月12日の深夜から13日にかけて、ベルリンの西側との境界線の包囲を断行。一夜にして西ベルリンを有刺鉄線で囲んでしまったのです。

ベルリンの壁の歴史(二)壁の時代と各国の動き

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第二次世界大戦の敗戦による分割統治に端を発したドイツ東西分裂。西側では経済が発達し豊かな暮らしが、東側はソ連主導の社会主義国として厳しい時代を迎えることとなりました。最も翻弄されたのがベルリンの人々であることは間違いありません。ベルリンに築かれた壁は、冷戦時代の象徴と言われるようになりました。

突然の包囲!引き裂かれたベルリンの人々

ある朝目覚めたら突然、町が鉄線で囲まれていた……西ベルリンの人々はあまりの出来事に絶望したと伝わっています。

そして東ドイツとソ連はそんな人々の思いをよそに、ベルリンの壁はわずか3~4年で強固なコンクリート製に造り変えられ、1975年から80年代にかけて、高さ3.6m、横幅1.2mの巨大且つ複雑な構造を持つ建造物へと変貌を遂げていきました。その距離およそ155㎞。随所に監視塔が設けられ、よじ登って越えることなど到底できない「壁」が、人々の前に立ちはだかります。

さらにベルリン東側では、市民が境界線を越えて西側に亡命しないよう、兵士が常にパトロール体制をとっていました。濠や電気柵、地雷が埋められた地域もあったそうです。

東西を行き来する際は検問所で厳しいチェックを受けなければなりませんでした。例えどちらかに家族や親戚がいたとしても……。壁一枚隔てて、市民の生活は大きく変わってしまったのです。

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