マーティンの生い立ちと人種差別の現状
日本では親しみを込めて「キング牧師」と呼ばれていますが、彼の本名はマーティン・ルーサー・キング・ジュニアといいます。後に人種差別開放のシンボルとなった彼の生い立ちと合わせて、当時のアメリカが抱えていた人種差別問題を紐解いていきましょう。
「同じアメリカ国民なのになぜ?」抑圧される黒人たち
アメリカの内戦だった「南北戦争」をご存知の方も多いはず。実はこの戦争は黒人奴隷解放をテーマにした戦いでした。奴隷がいなくても工業化による経済基盤がしっかりしていた北部諸州と、綿花などのプランテーション経営が主産業で、奴隷がいなければ経済が成り立たなかった南部諸州との戦いですね。
結局、北軍が勝利して、晴れて奴隷解放となったわけですが、これで「めでたしめでたし」というわけにはいきません。当時の南部諸州の人口の半分近くを占めていた黒人たちは、より自由を求めて北部へ移住した人もいたのでしょうが、南部に留まって生活基盤を築こうとする人が大半だったのです。
白人農園主たちは没落していき、1870年までに憲法修正第14条、15条で黒人が市民権と参政権を得ました。しかし白人たちは、昨日まで奴隷身分だった黒人が「はい、今日から同じ身分だよ。」と言われても納得しません。白人至上主義団体「KKK(クー・クラックス・クラン)」が台頭し、黒人たちを迫害・排斥しようという動きが活発になっていきました。
南部の白人たちは、奴隷開放宣言には黒人への土地の分与が含まれていなかったことに目をつけ、シェアクロッパー制度を制定します。このために黒人たちは、雇われの農業労働者か小作農になるしか道はなくなり、経済的に自立することすらできなかったのです。
さらには悪名高いジム・クロウ法がそれに拍車を掛けました。黒人に市民権があるといってもそれは名ばかりで、あからさまな人種差別が85年の長きにも渡って続くことになったのでした。
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ジム・クロウ法とは?
南部諸州で制定された法律。それぞれの州によって内容に差はありますが、おおむね黒人差別を念頭に置いたもので、白人と黒人を区分けし、黒人にとって不利な内容となっていました。以下はその具体的な例です。
・鉄道、学校、プール、映画館、トイレなどでは、白人と黒人で使える施設を分ける。
・白人看護師のいる病院では、黒人患者は立ち入ることができない。
・白人と黒人の結婚は禁止。4世代前まで遡り、一滴でも黒人の血が入っていれば黒人とみなす。
・黒人には過剰な投票税をかけ、ただでさえ貧困にあえぐ黒人が投票できないようにした。
・黒人が白人専用の施設に立ち入った場合、拘束されて裁判で有罪が適用される。
ガンジーの生きざまを知り、戦う決意を固めるマーティン
1929年、アメリカ南部のジョージア州アトランタで生を受けたマーティンは、父が牧師だったこともあって比較的安定した生活を送ることができました。当時の黒人が貧困から抜け出すためには、優秀な成績をおさめて牧師になること。地位もあり就職に困ることがなかったからです。
マーティンが最初の差別を受けたのは6歳の頃。彼は近所に住む白人の男の子と遊ぶのが日課で、いつも仲良くしていました。ところが小学校へ入校してみると、その男の子の姿が見当たりません。聞いてみると彼は白人専用の学校へ通っているとのこと。どうしても会いたくて彼の家へ行ってみると、その子の親がどうしても会わそうとはしません。そこで理由を聞いてみると、こう言われたそうです。
「私達は白人。でもあなたは黒人だから、もう一緒に遊べないのよ」
2年後、父と一緒に靴を買いに行った時のこと。店の中のベンチで腰を降ろしていると、店主からこう言われたそうです。
「恐れ入りますが、他のベンチに座ってもらえませんか?」
むっとした父親は言い返しました。「別にここでもかまわないのではないですか?」
店主はやれやれといった感じでこう言い返しました。「このベンチは白人の方専用なんです。嫌なら別に出て行ってもらってもかまいませんよ。」
怒った父親は、マーティンの手を引いて店から出て行ってしまったそうです。
やがて父と同様に、名門大学であるモアハウス大学を卒業して牧師になるべく勉強するマーティン。1949年のこと、インドの指導者だったマハトマ・ガンジーが暗殺されるというニュースが全世界を駆け巡りました。インドから帰ってきたモルデカイ・ジョンソン博士のガンジーに関する講演を聞いたマーティンは大きな感銘を受けます。
「ガンジーが非暴力をもって差別という悪と闘った。その尊い意志を引き継いで、自分たちもまた非暴力によって、この国を引き裂いている人種差別と戦うべきではないか。」
牧師を志していたマーティンはこの言葉を聞いて、「牧師となるのは自分の地位や名誉のためではない。聖書が教える愛をもって、この差別と戦っていこう。」と決心を新たにしたに違いありません。
黒人たちのために立ち上がるマーティン
By Herman Hiller / New York World-Telegram & Sun – Library of Congress Prints and Photographs Division. New York World-Telegram and the Sun Newspaper Photograph Collection. http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cph.3c16775, パブリック・ドメイン, Link
いよいよマーティン(キング牧師)が黒人たちのために立ち上がる時がやってきました。牧師として赴任したモンゴメリーという町で、様々な差別や困難に直面する黒人たちを目の当たりにしたからです。しかし、差別に対する怒りの炎は決して暴力に向かうことはありませんでした。
ローザ・パークス事件とバスボイコット運動
マーティンはボストン大学在学中に、コレッタ・スコットという黒人女性と知り合い、程なく結婚しました。やがて牧師となった彼と家族は、最初の赴任先であるアラバマ州のモンゴメリーという町へ行くことになりました。マーティンが生まれ育ったアトランタとは全く違い、このモンゴメリーでは黒人の多くが貧しく、抑圧された暮らしを余儀なくされていたのです。
白人の多くが自家用車を持っているにも関わらず、黒人たちは常にバスでの移動をしなければならず、座席も白人用と黒人用に区別されていました。混んでいるからといって白人用座席に座ろうものなら、運転手によって車外へ引きずり出されるということが頻繁に起きていました。そのような涙ながらの訴えがマーティンの耳にも届いていたのです。ローザ・パークス事件が起こったのも、その頃のことでした。
1955年12月、ローザ・パークスという黒人女性がバスに乗ったところ、後から大勢の白人男性たちが乗りこんできました。足が疲れて立てないでいると、バスの運転手が「さっさと降りるんだ!」と怒鳴り付け、それでも言うことを聞かないと見るや警察を呼び、無理やり彼女は拘束されてしまったのです。
その事実を聞いたマーティンは、即座に行動を開始しました。「出勤や登校、買い物、その他どこへ行くにもバスには乗らないこと。」そう書いたビラを7千枚印刷し、黒人たちにくまなく配布したのです。その運動に共鳴した人々は、バスの代わりに200台ものタクシーを同料金で乗れるように手配。バスボイコット運動を開始したのでした。
その効果はてきめん。黒人が乗車しなくなったバスは、どの便も空っぽな状態となり、ボイコット運動の効果を見せつけたのでした。その上でマーティンらは法廷へ乗り込み、結局、ローザ・パークスは10ドルの罰金刑という軽い刑罰で済み、無事に釈放されたのです。
黒人運動の精神的支柱となったマーティン
このバスボイコット運動は、新聞などのメディアで大々的に取り上げられ、一躍世間の注目を集めることになりました。しかし、運動が高まるにつれて白人側の妨害活動も激しさを増してきたことは言うまでもありません。
地元モンゴメリーのゲイル市長本人が、公然と黒人迫害団体に加盟し、市当局みずからデマを垂れ流し、ボイコット運動を分裂させようとしました。さらにはテレビを通じて運動を非難、ボイコット運動を助けることは一切するなと脅しをかける有様。
そればかりではありません。マーティンの家にも昼といわず夜といわず脅迫電話を掛け続け、彼の家はついに市が雇ったギャングに爆破されてしまったのです。それでもマーティンの心は折れませんでした。焼け焦げた自宅を前にして、群衆に対して語った彼の言葉があります。
「暴力で仕返しをしても少しも解決しません。白人たちが何をしようとも、私たちは彼らを愛さねばなりません。私たちが彼らを愛していることを、彼らに知らせなくてはなりません。かつてイエスが言われたように『敵を愛し、あなたを虐げる者のために祈りなさい』という教えを守ること。それこそが私たちの生きる道です。憎しみには愛をもって報いなくてはなりません。」
引用元 栗栖ひろみ「クリスチャン・トゥデイ 非暴力で差別と闘ったキング牧師の生涯」より
感銘を受けた群衆の拍手のもと、ついに黒人運動の精神的支柱となったマーティン。米連邦最高裁は、バスにおける人種差別を規定したアラバマ州法地方条令を違憲とする「差別停止命令」を発し、マーティンたちの勝利に終わったのでした。