アメリカの歴史独立後

ヤルタ会談にはじまりマルタ会談で終結した「冷戦」とはどのようなものだったか、わかりやすく解説

フルシチョフによるスターリン批判と「雪解け」

スターリンの死後、ソ連の指導者となったのがフルシチョフでした。フルシチョフは東西対立路線から西側との平和共存へと外交政策を転換します。さらに、フルシチョフはスターリンを名指しで批判。スターリンへの個人崇拝や粛清を批判したのです。

フルシチョフの方針転換により米ソの緊張は和らぎました。この状態を「雪解け」といいます。フルシチョフ時代に日本とソ連は日ソ共同宣言を出して国交を回復させました。

しかし、スターリン批判をきっかけとして起きた東欧諸国での反ソ運動に対してはソ連軍を派遣して弾圧します。また、ソ連とたもとを分かった中国の毛沢東とは「中ソ論争」を展開。同じ社会主義国家でありながら、ソ連と中国は対立関係となりました。

米ソによる核開発競争と宇宙開発競争

1945年当時、アメリカだけが核兵器の保有国でした。第二次世界大戦終了後、ソ連は核兵器の研究を進めます。1949年、ソ連は最初の原爆実験を成功させアメリカと並んで核保有国となりました。以後、アメリカとソ連は核兵器開発競争を繰り広げます。

核兵器が開発されたころ、核兵器は爆弾として重爆撃機に搭載して目標に投下するものでした。1957年、ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに成功します。

人工衛星を打ち上げる技術と、大陸間弾道弾とよばれる長距離ミサイル(ICBM)は基本的に同じ技術を使うため、人工衛星打ち上げの成功はミサイル実験の成功でもありました。

これに衝撃を受けたアメリカでもミサイル開発がすすめられ、まもなく、アメリカもICBMを大量に保有するようになります。また、宇宙開発の分野でもアメリカはアポロ計画の実行など積極的な動きを見せました。

世界に核戦争の危機を実感させたキューバ危機

カリブ海の島国であるキューバはアメリカの強い影響下にある国でした。1950年代にキューバを支配していたバティスタ政権はアメリカの後ろ盾で政権を維持します。

1959年、カストロゲバラを指導者とする革命軍がバティスタ政権を打倒しました。アメリカはカストロ政権を転覆させようと亡命キューバ人らを支援し、革命に干渉します。

カストロはアメリカに対抗するためソ連のフルシチョフに接近しました。フルシチョフはキューバへの支援を約束します。1962年10月、ソ連はキューバに中距離ミサイル基地を設置。アメリカはこの情報をキャッチすると、直ちにキューバ近海の海上封鎖を宣言しました。

一触即発の事態でしたが、フルシチョフがキューバからミサイルを撤去することで核戦争の危機は回避されます。キューバ危機後、米ソ両国はイギリスも加えて、部分的核実験停止条約を締結するなど核戦争の危機を緩和する動きを見せました。

第三世界の台頭

アメリカなど西側の資本主義諸国を第一世界、ソ連など東側の社会主義国を第二世界とした時、そのいずれにも属さない国々のことを第三世界諸国といいます。第三世界はアジア・アフリカ・ラテンアメリカなどかつて欧米の植民地だった国々で構成されました。

1954年、コロンボで開かれた第三世界諸国の会議では平和五原則が採択されます。翌1955年にインドネシアのバンドンで開かれたアジア=アフリカ会議にはインドのネルー、中国の周恩来、エジプトのナセル、インドネシアのスカルノ、ガーナのエンクルマなど第三世界の旗手と目された人々が会議に参加。

アジア=アフリカ会議では平和十原則が採択されます。第三世界の国々は東西どちらの軍事同盟にも参加せず、平和共存・反植民地主義を掲げる非同盟主義を提唱しました。

冷戦の変質と終結

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アメリカとソ連の二大国を主軸として世界を二分して争った冷戦時代。第三世界の台頭により冷戦も変化していきました。社会主義陣営では中国とソ連が路線をめぐって対立。資本主義側では西ドイツ首相ブラントによる東方外交などの動きが見られます。また、長期間にわたる対立でアメリカもソ連も経済的に疲弊しました。1989年、米ソ首脳はマルタで会談し冷戦を終結させます。

同じ社会主義国だったソ連と中国の対立

毛沢東はソ連の支援を得て中華人民共和国を建国しました。そのため、建国当初、ソ連と中国は同盟関係にあります。しかし、フルシチョフによるスターリン批判をきっかけに中ソは対立関係になっていきました。

ソ連と袂を分かった中国は独自に核兵器を開発。米ソに対抗する軍事力を手に入れます。1965年、中国では文化大革命が起きますが中ソ対立は文化大革命中も続きました。1969年3月、ウスリー川にある珍宝島で中ソ両軍が衝突するなど国境をめぐる武力衝突も多発します。

中国はソ連に対抗するためアメリカに接近。1972年にはニクソン大統領の電撃的訪中を受け入れ、関係改善を進めます。1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻すると中国はソ連を批判。モスクワリンピックのボイコットに踏み切りました。もはや、社会主義諸国も一枚岩とは言えない状況となります。

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