緊張緩和(デタント)と新冷戦
1969年、西ドイツの総選挙でドイツ社会民主党が第一党を獲得します。その結果、社会民主党党首のブラントが西ドイツ首相に就任しました。ブラントは東ドイツや東欧の共産圏諸国、ソ連との関係改善を模索します。
ポーランドとはオーデル・ナイセ線を両国の国境とすることで合意。西ドイツに領土拡張の野心がないことを世界に示します。また、東ドイツを国家として認め東西ドイツ基本条約を締結しました。
ブラントの動きは東西両陣営の緊張緩和(デタント)を実現します。その後、第一戦略兵器制限交渉や核戦争防止協定の締結、ヨーロッパ全域での安全保障について話し合う全欧安全保障協力会議の設置など緊張緩和の動きが進みました。
しかし、1979年のイラン革命へのアメリカの対応やソ連のアフガニスタン侵攻などにより東西両陣営の緊張が再び高まります。そのため、1980年代前半は「新冷戦」の時代といわれました。
ベトナム戦争の敗北とレーガン政権下の双子の赤字
1945年から1954年まで、インドシナ半島では植民地ベトナムと宗主国フランスの戦いが続きました。フランスが戦いに敗れベトナムから撤退するとアメリカがかわってベトナムに介入。ベトナム戦争の始まりです。
アメリカ軍は圧倒的な軍事力で南ベトナム政府を支援し、北ベトナムに爆撃を繰り返しました。しかし、北ベトナムはアメリカの攻撃に屈せず、1973年にはアメリカ軍を撤退に追い込みます。ベトナム戦争はアメリカにとって初めての敗戦でした。
1981年に大統領となったレーガンは、新冷戦の状況を踏まえソ連に対抗し軍事費を増大させ財政赤字を招きます。また、レーガン時代は輸出も伸びなかったため貿易赤字が拡大しました。その結果、アメリカは財政赤字と貿易赤字の双子の赤字に苦しみます。
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ブレジネフ時代のソ連の停滞とアフガニスタン侵攻
フルシチョフが失脚したのち、ソ連で指導者となったのがブレジネフでした。ブレジネフの統治期間は18年に及びます。これは、スターリンに次ぐ長期政権でした。ブレジネフはデタントの流れに乗り緊張を緩和します。
このころ、ソ連の政治はノーメンクラツーラとよばれる一握りの共産党官僚に握られていました。ノーメンクラツーラたちは大きな変化や改革によって自分たちの権利が侵害されることを恐れます。そのため、国内で解決すべき問題が発生しても先送りしてしまいました。国内政治は停滞し、ソ連経済は活力を失います。
1979年、ソ連はアフガニスタンに軍事侵攻。ソ連指導部は短期決戦をもくろみますが、実際は泥沼の戦いとなりました。アフガニスタン侵攻はソ連経済に大きなダメージを与えます。
冷戦を終結させたマルタ会談
デタント後の新冷戦で、アメリカもソ連も軍事費を優先せざるを得ず、経済面での疲弊が目立ち始めます。その一方でヨーロッパや日本が経済力をつけ、米ソ両大国の地位を脅かしつつありました。
1985年、ゴルバチョフがソ連の指導者となると状況に変化がみられるようになります。ゴルバチョフは西側との相互依存や他の社会主義国との関係を対等なものに改める新思考外交を打ち出しました。
この流れに沿って、米ソ両首脳の会談が実現します。1989年、アメリカのブッシュ大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が地中海にあるマルタ島で会談。両首脳は1945年のヤルタ会談以降続いていた冷戦が、マルタ会談によって終結したと宣言しました。
冷戦終結後、ソ連は崩壊しほとんどの社会主義政権が消滅した
マルタ会談で米ソ両国が合意することで、第二次世界大戦直後から続いた冷戦が終わりを迎えました。1990年代以降、唯一の超大国となったアメリカが国際政治で主導権を握ります。その一方で、ソ連は1991年に崩壊。世界各地にあった社会主義諸国もほとんどが消滅してしまいました。
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