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「ポツダム宣言」とは?受諾の背景・経過・結果をわかりやすく解説

毎年お盆のころ、太平洋戦争に関するドラマやテレビ番組が多数放送されます。特に、8月15日は終戦記念日としてクローズアップされますよね。その前日の8月14日、日本政府は連合国にポツダム宣言を受諾する旨を通告していました。1945年8月15日、NHKのラジオから昭和天皇が自らポツダム宣言を受諾したことを国民に発表しました。よって、日本では8月15日を終戦記念日としています。今回は多くの犠牲者を出した第二次世界大戦を終結させたポツダム宣言受諾についてわかりやすく解説します。

ポツダム宣言の背景

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かつて、日本の連合艦隊司令長官を務めた山本五十六はアメリカとの戦争に関して、「半年や一年なら暴れられるが、二年、三年となれば全く確信は持てない」と時の首相である近衛文麿に言ったといいます。太平洋戦争は山本の言葉をなぞるような展開になりました。同じころ、ヨーロッパでは圧倒的優勢を確保していたドイツがスターリングラードで敗北。次第に連合国の優位は動かしがたいものとなっていきました。

敗色濃厚な枢軸諸国

1942年6月、日本海軍機動部隊は中部太平洋のミッドウェー諸島付近でアメリカ海軍機動部隊と交戦。日本海軍は開戦以来最大の損害を出して敗北しました。日中戦争では、日本軍は連合軍による中国国民党の蒋介石支援を断ち切ることができず、戦争が長期化します。

1943年に入るとドイツ軍とソビエト連邦軍がスターリングラードで激突。激しい市街戦の末、ドイツ軍がソビエト軍に敗れ去りました。ドイツ軍は首都モスクワも南部の中心都市であるスターリングラードも落とすことができません。体勢を立て直したソ連軍はドイツ軍を押し返します。

1943年9月には三国同盟の一角だったイタリアが連合国に降伏。枢軸国は連合国によって追い詰められ、次第に敗色が濃厚となっていきました。

水面下の終戦工作

1944年になると、サイパン島の日本守備隊降伏やインド侵攻を企図したインパール作戦の失敗などで戦局の不利が明らかになり始めます。近衛文麿などの有力者が日ソ中立条約を結び太平洋戦争に参戦していなかったソビエト連邦を通じて太平洋戦争の終結を図っていました。

1945年に成立した鈴木貫太郎内閣は元首相の近衛文麿を特使としてソ連に派遣しようとしますが、ソ連が拒否したため頓挫します。実は、ソ連はこのころ中立条約を破棄して日本に侵攻しようとしていました。

それでも、近衛ら宮中を基盤とする勢力は水面下で終戦工作を試み続けました。終戦工作が水面下で進められた理由は軍の主戦派の反発を恐れてのことでしょう。近衛ら天皇の側近による終戦工作が発覚した時、かつての五・一五事件や二・二六事件のようなクーデタ騒ぎになりかねません。終戦工作は深刻かつ緊急だったにもかかわらず、ひそかに進められたのです。

ヤルタ会談と秘密協定

1945年2月、連合国首脳がソビエト連邦のクリミア半島にある保養地ヤルタに集まっていました。参加した首脳はアメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルト、イギリス首相チャーチル、ソビエト連邦の指導者スターリンの3人です。

会談では主にドイツに対する戦後処理や戦犯の処罰、国際連合の設立などが定められました。この会談で決定した内容をヤルタ協定といいます。ヤルタ協定には秘密の内容がありました。それは、ソ連の対日参戦です。

ソ連の対日参戦を強く希望したのはアメリカでした。アメリカは犠牲を顧みない日本の反撃で多くの犠牲者を出すことを恐れます。そこで、ソ連に北から日本を攻めてもらうことで早期に戦争を終結させアメリカの犠牲を少なくしようと画策したのです。

しかし、ソ連は日本と日ソ中立条約を結んでいました。アメリカはソ連に千島列島や樺太全土の領有を認めるなど大幅に譲歩します。これを受けてスターリンはひそかに対日参戦を約束しました。

ポツダム宣言受諾までの流れ

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1945年5月、ドイツが連合国に無条件降伏すると戦っている主要枢軸国は日本のみとなりました。同盟国を失い、多くの戦死者・犠牲者が出ても戦い続ける日本に対し、連合国はポツダム宣言を発して無条件降伏を勧告します。それでも黙殺する日本に対してアメリカは原子爆弾を使用しました。ポツダム宣言の発表から受諾までの流れを追います。

ポツダム会談とポツダム宣言

ナチス=ドイツの降伏後、ベルリンの西にあるポツダム市でアメリカ・イギリス・ソ連の参加国が首脳会談を開きました。アメリカは病気で死去したローズヴェルトに代わってトルーマン大統領が参加。イギリスはチャーチル首相(会談中にアトリーと交代)、ソ連はスターリンが会談に臨みます。

会談の主要議題は対ドイツの戦後処理についてでした。ドイツに関する取り決めはポツダム協定として調印されドイツの分割占領が決定します。このとき、アメリカ・イギリス・中華民国の名で日本政府に対して無条件降伏を勧告するポツダム宣言が出されました。

宣言で降伏の条件や戦後の対日処理方針、軍国主義の排除や戦犯の処罰、徹底した民主化や連合国による占領などを要求しました。日本政府はこの宣言を”黙殺”します。黙殺はノーコメントに近い趣旨ですが、連合国は明確な拒否としてとらえました。日本政府にポツダム宣言を受諾させるにはより強い軍事的な圧力が必要だと考えられたのです。

沖縄戦から原子爆弾投下、そしてソ連の対日参戦

1945年に入ると全国の主要都市が相次いでアメリカ軍の空襲を受けていました。子供たちは主要都市から地方に疎開。戦火を逃れさせようとしました。3月にはアメリカ軍が沖縄に上陸。凄惨な沖縄戦が始まりました。沖縄戦での日本側の死者は18万人以上、アメリカ軍も1万人以上の戦死者を出しました。

沖縄戦の後に出されたポツダム宣言に対して日本政府が黙殺したことで、アメリカは日本の戦意を削ぐ新兵器の使用を決断します。それが原子爆弾でした。8月6日に広島に、8月9日に長崎に投下された原子爆弾による死者は両市をあわせて20万人近くにのぼります。

この二つの原子爆弾投下の間にあたる8月8日、日本が終戦工作の期待をかけていたソ連がヤルタでの密約に従って日ソ中立条約を破棄。満州・樺太・千島列島に侵攻を開始します。仲介役を失った日本にはポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏する以外の選択肢はなかったのです。

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