そもそも代理戦争とはなんなのか?
代理戦争とは簡単に言えば大国同士が対立している小国に武器を援助したり、遠征軍を派遣したりすることであたかも大国同士が戦っているような形となっていることを指します。
今でも代理戦争はテレビとかで例えとして聞くことがありますが、本来の代理戦争は冷戦時代の時にアメリカとソ連が度々行っていたものでした。
次はそんな代理戦争の代表例とも言える3つの戦争について見ていきたいと思います。
こちらの記事もおすすめ
朝鮮戦争
冷戦時代で初めて行われた代理戦争は1950年から行われた朝鮮戦争でした。
元々朝鮮半島は日本の領土となっていたのですが、1945年に第二次世界大戦で負けると朝鮮半島には北緯38度線から南にアメリカ、北にソビエト連邦が進駐してきて日本の代わりに統治することとなりました。
まずはそんな日本が去ってから起きた悲劇である朝鮮戦争について見ていきましょう。
北朝鮮と韓国の成立
1945年に日本が朝鮮の統治を終了すると1948年に北側にソビエト連邦が支援して朝鮮民主主義人民共和国が、南側にアメリカなどが支援して大韓民国が成立しました。
しかし、朝鮮半島の国民からしたらようやく独立を果たしたというのに大国の利害によって国が分断されるということは耐えられません。
そのため各地で抗議活動が行われることになるのですが、これを大韓民国初代大統領となった李承晩は力で鎮圧。
こうして朝鮮半島の分断は確実なものとなったのでした。
冷戦の勃発と朝鮮半島
しかし、この頃になるとアメリカとソ連は互いに敵対心を持ち始めていき、さらにアメリカは共産化していく中国やソ連とも接しているこの朝鮮半島を是が非でも手に入れたかった。
もちろんソ連側からしても朝鮮半島はとても重要な土地。こんな状態で仲良くなれるはずもなく徐々に関係は悪化。
特に北朝鮮側のリーダーである金日成は当時のソ連の指導者であるスターリンに対して度々大韓民国への侵攻の支援を要請してスターリン自身も中国の支援を取り付けたら侵攻を容認して支援も行うとしました。
こうして侵攻の許可を取り付けた北朝鮮側は1950年6月25日に韓国へと侵攻を開始。
大国の利害のせいで対立関係を深めていた韓国と北朝鮮はついに戦争状態に突入することとなったのでした。
北朝鮮の快進撃とアメリカの介入
こうしてソ連と中国の介入と支援を取り付けた北朝鮮は韓国に向かって侵攻を開始。まだ、アメリカなどの西側諸国から支援を取り付けていなかった韓国はどうしようもできず、続々と敗北。
首都のソウルも取られてしまい挙げ句の果てには朝鮮半島の最東端である釜山付近まで追い詰められることになります。
こんな韓国の体たらくを見てついに当時GHQの長官として日本にいたマッカーサーは立ち上がります。
アメリカは北朝鮮の侵攻に反抗するために国連軍を結成してなんとか韓国の立て直しを図ります。
また、マッカーサーは北朝鮮の侵攻を止めるためにソウル近くの仁川に上陸することを進言。
この作戦はうまくいき国連軍による上陸作戦によってなんとか侵攻された土地を全て奪還。さらには北朝鮮の首都平壌へと逆侵攻できるまでになったのでした。
中国の全面介入とアコーディオン戦争
こうして攻める側から攻められる側へと変貌を遂げた北朝鮮はソ連の全面介入を要請。
しかし、スターリンはアメリカとの全面対決を恐れてこの介入要請を聞くことはありませんでした。
しかし、ソ連に変わって本気で北朝鮮に介入した国がありました。それが1949年に中国大陸の統一を果たした中華人民共和国だったのです。
中国はアメリカの侵攻を食い止めるために100万人の義勇軍を徴収。ソ連は直接介入はしないものの、中国のこの義勇軍に対して武器の供給を行いました。この中国の全面介入の結果北朝鮮側が盛り返すことになり最終的には北緯38度線で膠着。
アコーディオンみたいに戦線が大きく変わったことからアコーディオン戦争とも呼ばれたこの朝鮮戦争はアメリカの韓国への介入や北朝鮮に対する中国の全面介入のおかげで泥沼化の様相を見せることとなったのでした。
朝鮮戦争の休戦交渉と現在
こうして泥沼化していく朝鮮戦争。この頃になるとアメリカとソ連はこの頃から嫌気をさしていく様になります。例えばこの頃に中国まで侵攻すべきと主張したマッカーサーがトルーマン大統領によって首に追いやられてしまい、また1953年に入るとトルーマンに変わってドワイト・アイゼンハワーが就任。さらに3月にはスターリンが亡くなるとついに休戦交渉が始まり、国連軍と北朝鮮の間で板門店にて調印。
国連軍は36万、中国義勇軍は40万人の死者を出して休戦状態となりました。
しかし、朝鮮戦争は休戦という形にはなったものの、まだ戦争状態自体は継続しており、まだ終結には至っていません。