その他の国の歴史アジア

現在でも日韓関係に影を落とす「三・一運動」とは

江華島事件による日本との不平等条約

日本の海軍が江華島付近を航行中に朝鮮王朝軍から砲撃を受け、すぐに反撃します。江華島事件を口実に、当時鎖国を国の決まりとしていた朝鮮王朝に対して、日朝修好条規(江華条約)という不平等条約を押し付けて開国させてしまったのです。日本は、ペリーやハリスによって不平等条約を押し付けられたことを、今度は朝鮮王朝に行いました。

朝鮮王朝は清と日本に翻弄されていた

江華島事件以降の朝鮮王朝は、清と日本両方からの介入を受け、国王高宗の父親の大院君と皇后の閔妃がそれぞれ日本と清を背後に権力争いをするようになったのです。それは、日清戦争まで続き、朝鮮王朝は、両国の綱引きの中で翻弄されることになりました。

日清戦争による清の撤退と三国介入によるロシアの進出

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国内の反乱であった甲午農民戦争をきっかけとして、日本と清が軍隊を派遣して日清戦争が起こりました。その結果、日本が圧勝して、遼東半島や台湾などの清の領地割譲を得るとともに、当時の国家予算の2倍以上に匹敵する賠償金を得たのです。この賠償金は、その後の日本の工業化、産業革命にとって大きな資金となり、北九州の八幡には巨大な鉄工所が作られ、日本の工業化を牽引しました。これが、現在の新日鉄です。

但し、遼東半島割譲については、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉によって清に戻すことになってしまいました。さらに南下政策をとるロシアは、朝鮮半島にも進出の気配を見せるようになり、日本とロシアの関係は悪化していったのです。

朝鮮王朝の内部も、ロシアの進出によって再び、混乱が生じ、閔妃暗殺事件なども起こり、国名を大韓帝国と国名を変えて自立の道を探りました。

日露戦争によって日本主導による数次の日韓協約の強要

ロシアとの対立が深まり、日本は、ロシアに対する反感が高まり、国民世論は戦争やむ無しに傾いていきます。その結果、日露戦争が勃発したのです。その日露戦争に勝った日本は、ポーツマス条約で、改めて遼東半島を手に入れるとともに朝鮮半島の利権を独占することに成功します。

ポーツマス条約翌年から、日本は大韓帝国に対して数次の日韓協約を結ばせて、どんどん朝鮮半島における内政外政干渉を行いました。1905年には第2次日韓協約(韓国保護条約)を強要し、統監府を置き、韓国の外交権を奪ったのです。そのために、韓国皇帝は、ハーグで行われた万国平和会議に密使を送って韓国の実情を訴え、日本の干渉を避けようとしました。しかし、結果は、各国ともに植民地を持った国々であり、主張は無視されてしまったのです。

日本は当然怒って皇帝を退位させ、1908年に第3次日韓協約を結ばせて、韓国の内政権も完全に支配するようになりました。統監府の初代の総監になったのが伊藤博文であり、韓国の実権を奪った恨みから、1909年に伊藤博文はハルピンで安重根によって暗殺されてしまいます。その結果、日本は1910年に韓国を完全に植民地化する日韓併合条約を結ばせてしまったのです。

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