ドイツプロセイン王国ヨーロッパの歴史

ドイツを統一した「ビスマルク」の生涯・業績をわかりやすく解説

今回解説する人物はビスマルク。彼はユンガー出身の貴族でありながら保守的な考えを持ってドイツを国際的な舞台に立たせた偉大な政治家で、今でもドイツの海軍の戦艦やドイツの模範的な政治家として尊敬されています。 そんなビスマルクはどんな政治を行っていたのか?今回はそんなビスマルクの業績について解説していこうと思います。

ビスマルクによるドイツ統一

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ビスマルクがプロイセンの首相に就任した当時、今のドイツの領内は300もの諸侯の領地がひしめいているバラバラの状態でその領主が集まって会議を行いドイツを統一していこうとしていました。

プロイセンはその中でも別格の存在であり、ドイツ統一はプロイセンかこの当時ドイツをまとめていた議長国オーストリアのどっちかという状態だったのです。

そんな状態の中でどのようにしてビスマルクはドイツを統一していったのか?まずはドイツの統一の過程についてみていきましょう。

普墺戦争と北ドイツ連邦の成立

ビスマルクは首相になった頃からドイツの統一に力を入れていました。1864年にはデンマークとの戦争に勝利。デンマークの一部領土を奪い取ってプロイセンの求心力を高めます

さらにビスマルクは今でも彼の代名詞となっている鉄血宰相の元となった演説『鉄血演説』を行い血(兵士)と鉄(武器弾薬)のみがこの問題を解決する唯一の方法と主張し、プロイセンを強大な軍事大国に仕立て上げたのでした。

そんな中、プロイセンの急激な軍事大国化にプロイセンと同じくドイツ統一の代表格となっていたオーストリアは「もしこのままいけばドイツはプロイセンによって統一されてしまうかもしれない」という危機感を抱き始めます。

しかし相手はあのビスマルク。この危機感をいちはやく察知してオーストリアを挑発。オーストリアを戦争に持ち込む事に成功し、普墺戦争を引き起こしたのでした。結果はプロイセンの大勝。わずか七週間で終わり、プラハ条約においてプロイセンはドイツの主導権を獲得し、それに基づいて1866年にプロイセン主導の北ドイツの諸侯の連合である北ドイツ連邦が成立。ドイツ統一に大きく前進しました。

ちなみにまだこの時は南ドイツは統合していません。それもそのはずプロイセン含む北ドイツはプロテスタントの教徒が多かったのに対して、南ドイツはカトリックの教徒が多かったのです。ビスマルクも馬鹿じゃないためいきなり北ドイツと南ドイツを統合すると対立が起こってしまうということはわかっています。そのためビスマルクは北ドイツ連邦を一旦作り、その後南ドイツも併合しようとしていたのでした。

普仏戦争とドイツ帝国成立

さてこうして北ドイツを統合する事に成功したプロイセン。しかし上にも書いた通りまだこの時は南ドイツを併合していませんでした。もちろんビスマルクは最初から統合するつもりだったため何かきっかけが欲しかったのですが、ちょうど同じ頃プロイセンと同じことを隣国のフランスも考えていたのでした。

当時フランスを治めていたナポレオン3世はナポレオン1世の甥だったこともありかなり外国政策に熱心な人だったそうで、南ドイツもその手の内に入れようとしていたのです。

これに対して危機感と同時にチャンスと思ったのがビスマルク。ビスマルクはかつてナポレオン1世の支配下に置かれていたという屈辱的な過去を持ち出して国内の世論を統一。フランス打倒のための挙国一致体制を築き上げます。さらにビスマルクは普墺戦争と同じように相手から攻撃を仕掛けるように挑発を行いました。当時、ヨーロッパではスペイン王位継承問題で揉めていたばかり。ナポレオン3世もこの問題に介入していました。ビスマルクはこの問題に漬け込み、エムス電報事件と呼ばれる事件を引き起こしフランス世論を煽り立てて無理矢理戦争に引きずり込んだのです。

ここまでくればあとは簡単。プロイセンはフランスを一気に叩き潰しさらにはナポレオン3世を捕虜にするという大成果を収め、普仏戦争と呼ばれるこの戦争に勝利。国内世論の高まりもあってビスマルクは一気に南ドイツを併合。フランスのヴェルサイユ宮殿においてついに長年の悲願であったドイツ統一を果たしたのと同時にドイツ帝国が成立したのでした。

不遇の晩年とドイツ帝国のその後

ドイツ帝国はこうして成立しビスマルクはそのドイツ帝国の宰相となったのですが、26年後の1888年にビスマルクとは対立したものの、ビスマルクの最大の理解者であったヴィルヘルム1世が死去。その後継者としてヴィルヘルム2世が即位しました。しかしこのヴィルヘルム2世は政治に介入してくるビスマルクを嫌っており、さらに敵視していたのです。

そして、社会主義者鎮圧法の改正が決め手となりビスマルクとヴィルヘルム2世は完全に対立。居心地が悪くなりもはや改革ができないと判断したビスマルクは辞表を皇帝に提出し政界から引退。これによって1862年以来30年近く続いたビスマルクの時代は終わりを告げ、ヴィルヘルム2世による政治が始まりました。

そしてビスマルクが政界から引退したことはドイツ帝国に暗い影を潜め始めビスマルクが人生をかけて作り上げたビスマルク体制は崩壊。

さらにはビスマルクが失脚したことを機にフランスが一気に盛り返し始め時代はビスマルク体制の平和な時代から第1次世界大戦という未曾有の大戦争へと移り変わっていくのでした。

ビスマルクとはどういう人物だったのか?

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さてさて、ここまではビスマルクによるドイツ統一の過程を見ていきましたがこれまでバラバラだったドイツの領内をわずか一代で統一させた能力は近代史の人物の中でも一二を争うほどの傑物だったと私は思っています。そこで次はビスマルクはどうしてこんな傑物となっていったのか?その謎を彼がドイツ帝国内で行った政策と外交政策に交えて紹介していきましょう。

鉄血演説と思いきった決断力

ビスマルクという政治家は議会にて『鉄と血でしか問題を解決できない』と発言して『鉄血宰相』と呼ばれた通り思い切った判断を行う決断力の速さという特徴があり、そのおかげでかつて300に分かれていたドイツが一つにまとまり一躍世界の強国に躍り出ることができたのです。

飴と鞭による内政

当時ドイツ帝国内にはヨーロッパ1とも言えるぐらいの社会主義者が存在しており、この頃のヨーロッパの国の議会では珍しく12もの議席を獲得するなど結構奮闘していました。しかし、ビスマルクにとってこれは脅威でしかありません。もしも社会主義者が革命を起こしてドイツ帝国を転覆しようものなら彼が一生懸命作ってきたドイツ統一の事業は台無しになってしまいます。そのためビスマルクは直ちに社会主義者の弾圧を決行。社会主義者を逮捕できる社会主義者鎮圧法を可決させるなど社会主義的な考えを広めさせないために尽力していました。

しかし彼の凄いところはただ社会主義者を弾圧するのではなくそれに変わって労働者の権利を認めたというところ。これはビスマルクからしたら労働者が社会主義者と結びつかないようにするためだったかもしれませんが、ビスマルクは現在当たり前にある社会保障を創始。これは当時のヨーロッパでは画期的なことであり、これはヨーロッパで初めてともいっても過言ではありませんでした。

さらにビスマルクは労災保険法と年金制度も確立。労働者の権利を創始したりするなど内政も充分な才能を見せていたのです。

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