日本の興亡をかけた日露戦争までのあらすじ
日露戦争はその中の戦争の1つである日本海海戦において連合艦隊艦長であった東郷平八郎が電報にて「皇国の興亡この一戦にあり」と送った通りまさしく日本の未来を決める大一番となった戦争でした。そんな戦争になんで日本は挑むことになったのか、まずはその原因について探ってみましょう。
日清戦争の勝利と三国干渉
1894年、日本はかつて『眠れる獅子』と呼ばれ恐れられてきた大清帝国に日清戦争と呼ばれる戦争で華々しく勝利。まぁ、この頃の清がめちゃくちゃ弱かったことと、清の指揮官がとんでもない大ポカをやらかしたから自動的に勝てたという点もあるのですがね。それはそうとしてこうして戦争に勝利した日本は下関条約にて大清帝国から
・遼東半島の割譲
・台湾・澎湖諸島の割譲
・朝鮮の独立
・3億両(日本の国家予算3年分)の支払い
を取り付け、日本はアジアの覇者として一歩前進しました。こうしてめでたしめでたし…とはなりません。当時日本は大清帝国には勝ったものの、ヨーロッパからすればしょせん大清帝国という扱いです。日本はロシア・ドイツ・フランスに圧力をかけられてさらに3千万円の賠償金の追加を支払う代わりに大清帝国に対して遼東半島を返さなければいけないことになってしまいます。これを三国干渉と呼ぶのですが、なんでこの三国が日本に圧力をかけてきたのでしょうか?そこにはロシアの思惑が潜んでいました
ロシアの南下政策
三国干渉に一番本気で取り組んだのはロシアでした。他のドイツとフランスも三国干渉には参加しましたが、これらの国はロシアの付け合わせ程度。よくアニメとかで見る番長に付いている下っ端みたいな立場です。一見すると「ロシアが大清帝国のために日本から領地を返してもらった!」と思いますが、ロシアが大清帝国に対して情なんてかけるはずがありません。実はロシアという国は日本がとった遼東半島の港が欲しくて欲しくてたまらなかったのです。
ロシアという国は地図を見ればわかる通り結構寒い地方で冬になると海が凍ってしまい港が使えなくなってしまいます。船が凍った水を割るなんて当時の技術にはありませんからそのためこの当時のロシアは冬の間は貿易できないという困った状態だったのです。
そのためロシアは遼東半島を返してもらって大喜びの大清帝国に対して「大清帝国さん?日本から返してもらったんだからちょっとぐらい港貸してもらえない?ついでに鉄道の敷設権もね」と脅しにかかります。「日本に負けているのにロシアなんかに勝てるわけないだろ!」そう心の中で叫んでいた清は渋々遼東半島の中でも特に規模が大きかった港である旅順をロシアに租借(貸すこと)。ロシアは念願の不凍港を手に入れることができました。
義和団事件
日本に負けて踏んだり蹴ったりの大清帝国。さらにこの頃中国ではイギリスやフランスやドイツなどがこぞって中国の領土をぶんどったり、租借地としていました。
これには流石の大清帝国も我慢できません。そもそも、国民が納得いきません。そんな時に現れたのが義和団という宗教。この宗教は『扶清滅洋』を唱え、清に徹底的に協力をして徹底的にヨーロッパの勢力を潰しにかかります。そんなことしたらヨーロッパがさらに大清帝国に対して攻め込んでいくと思うのですが…どうなんでしょうね。
まぁ結局、この様子を見かねたヨーロッパ諸国は義和団に宣戦布告。
アメリカとイギリスとフランスとドイツとオーストリアとロシアと日本と英領インドからなる8カ国連合軍を結成してこの義和団の暴動を鎮圧します。これだけだったらただ清の中で起こった反乱で終わるはずだったのですが、なんとなんと清が急にトチ狂ったのかこの連合軍に宣戦布告してしまい、8カ国連合軍と清という歴代最高級の選手を集めたチームVS草野球チームみたいな絶望的展開へと突入。清国は義和団とともにボコボコにやられ、北京議定書という巨額の賠償金と治外法権を認めなければいけなくなってしまいました。ここまでくれば哀れもいいところです。
ロシアとの戦争の動き
義和団事件以降、ロシアは旅順だけでは飽き足らなくなり、さらに満州(中国東北部)実質的に領土とします。こうなると思いっきり困るのが日本。当時日本は朝鮮を事実上支配下に置いており、権益をどんどん拡大していました。しかし、ロシアが満州を取ると日本としても朝鮮の権益がロシアにとられてしまうという最悪の事態が起きてしまうケースが生まれていったのです。「こりゃやばいって!」そう感じた日本は2つの案を考えつきます。
まず1つは満韓交換論。これは要するに「満洲はロシアの物にしていいけど、韓国は日本のものね」ということをはっきりと決めて、ロシアとの戦争を回避する案でした。これを支持したのが伊藤博文。伊藤博文は「ロシアに勝てるわけないだろ!」と思っていたため、これは仕方のないことだとこの案を支持していました。
もう一つの案は対露強硬論。これは要するに「ロシアをぶっ潰す!」という案で当時の首相であった桂太郎と山縣有朋、さらには国民の大多数もこれを支持していました。というのも日本国民としたら三国干渉において日本が汗水垂らしてようやく掴んだ領土をロシアに返さなければいけなくなったという過去がありますから、臥薪嘗胆をしていた国民にとってこれは仕方のないことであり、仕返しのチャンスだとしたのです。
日英同盟と後戻りできないほどの負債
こうして日本は戦争まっしぐらへ向かっていきますが、しかし、日本だけではどうにもロシアに勝つことができません。「これでは戦争なんて出来ない…」そう日本の政府は思ったことでしょう。しかし、この当時日本の他にもヨーロッパ最強の国で世界の25パーセントを我が物としていたイギリスもロシアのことが大嫌いだったのです。
当時イギリスとロシアはクリミア半島を巡って戦ったばかり。イギリスとしたら日本はロシアの対抗馬として利用することができ、さらにアジアでの動乱の対処を任す事が出来たのです。これは日本にとってはまさしく天から送られた助けに他ならず、1902年日本とイギリスは対等条約である日英同盟を締結。これにはロシアもビックリだったようで一度は満州を撤退することを余儀なくされます。
また、当時の大蔵大臣であった高橋是清はイギリスとアメリカから8億円という当時の日本の国家予算の8年分という国が傾きかねないお金を借り入れ、さらに日清戦争の賠償金の86パーセントを日露戦争用の軍事費に突っ込み準備満タンでロシアとの戦争に臨みました。こうして1904年、日本はロシアに宣戦布告。日露戦争が始まりました。
日露戦争の4つの戦い
日露戦争は主に旅順や朝鮮などを主戦地としており、ここでは日本とロシアが激戦を繰り広げていきました。次はその4つの戦いを順に見てみましょう。