湾岸戦争で敗れたイラクが、なぜ再び戦争の舞台となったのか
1991年の湾岸戦争はイラク軍の大敗北で終わりました。湾岸戦争で多くの戦力を失ったイラクでしたが、独裁者サダム=フセインの政権は継続。アメリカと対峙する姿勢を崩しませんでした。アメリカの中東地域などに対する強引な介入はイスラム諸国で大きな反発を呼びます。こうして育まれた反米感情は9.11同時多発テロの温床となりました。
湾岸戦争でクウェート侵攻に失敗したイラク
1990年、イラクは隣国クウェートに軍をすすめクウェート全土を支配下に置きました。湾岸戦争の始まりです。クウェートの領有を宣言するイラクのフセイン大統領に対し、アメリカのブッシュ大統領は武力行使を決断。多国籍軍を編成し、イラクを攻撃しました。
多国籍軍は地上軍の侵攻を容易にするため、連日イラク各地を空爆します。イラクはイスラエルに対してミサイル攻撃を実施し、戦いの目的をイスラム教徒と異教徒の争いにすり替えようとしましたが、イスラエルが反撃を自重したため失敗。
空爆によって疲弊したイラク軍は、満を持して侵攻した多国籍軍の地上軍の前に敗れさりました。イラクはクウェート撤退の国連決議を受諾。フセイン政権は存続したものの、湾岸戦争には敗北しました。
こちらの記事もおすすめ
今さら聞けない湾岸戦争。背景から経緯、その影響までわかりやすく解説! – Rinto~凛と~
高まる反米感情と国際武装組織アルカーイダ
湾岸戦争でサウジアラビアはアメリカなどの多国籍軍側につきました。その際、サウジアラビアはアメリカ軍の国内駐留を容認します。
湾岸戦争後、アメリカ軍は中東地域への駐留を継続、特に、サウジアラビアへの駐留継続は反米感情を高めました。なぜなら、サウジアラビアにはイスラム教の聖地メッカやメディナがあったからです。
こうした反米感情はアルカーイダ誕生の母体となりました。アルカーイダはウサーマ=ビン=ラディンが創設した反米闘争の組織です。ビン=ラディンの資金力で力を得たアルカーイダは国際的なテロを次々と実施しました。のちに起きる9.11同時多発テロがその最たるものです。
また、中東諸国には、イスラエルを常に擁護するアメリカへの根強い不信感があり、反米組織が育ちやすい土壌があることは否めません。
航空機を使った9.11同時多発テロの衝撃
2001年9月11日、アメリカで複数の航空機がハイジャックされました。ハイジャックされた航空機はニューヨークのワールドトレードセンターやワシントンの国防総省庁舎(ペンタゴン)などに突入。航空機の乗員乗客や突入された建物で多くの死傷者がでました。
航空機が衝突したワールドトレードセンターの2つのビルは完全に崩壊。多くの民間人の死者を出しました。同時多発テロによる死者はおよそ3000人、負傷者6000人以上を出す大惨事となります。
アメリカのジョージ=ブッシュ大統領は、犯人は19名のイスラム原理主義者であり、彼らに指示を与えたのがアルカーイダ創設者のウサーマ=ビン=ラディンであると特定。アルカーイダとそれを支援する国々に対する報復を行う「テロとの戦い」を宣言しました。
アメリカは国際社会の反対を振り切り、イラク戦争をはじめた
9.11の同時多発テロの後、アメリカは徹底したテロとの戦いを宣言しました。2001年10月にはアフガニスタンのタリバン政権がビン=ラディンらをかくまっているとして、アメリカはアフガニスタンを攻撃。さらに、イラクもアルカーイダなどテロ組織と手を組み大量破壊兵器を持っているとして攻撃対象となりました。イラク戦争開戦の経緯をまとめます。
テロとの戦いとアフガニスタンのタリバン攻撃
タリバン、または、ターリバーンとは、アフガニスタンのイスラム原理主義者による武装組織です。1989年にソ連軍がアフガニスタンから撤退したのち、勢力を拡大しました。
1994年、アフガニスタン南部のカンダハルに現れたタリバンは、1996年に首都カブールを占拠。タリバンは2000年までにアフガニスタンの90%を支配下に置きます。アルカーイダの指導者ビン=ラディンはタリバンに資金や武器を援助するなど提携関係にありました。
ブッシュ大統領はタリバン政権がビン=ラディンをかくまっているとしてアフガニスタンに軍事侵攻します。戦いは2か月ほどで終息しますが、肝心のビン=ラディンの補足には失敗してしまいました。タリバンを倒したアメリカの矛先は、イラクのフセイン政権に向けられます。
ブッシュ大統領による悪の枢軸演説とイラク核査察問題
アフガニスタンでの戦いが一段落ついた2002年1月29日、ブッシュ大統領は議会で行った一般教書演説で朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とイラン、イラクを「悪の枢軸」として批判します。
ブッシュ大統領は悪の枢軸の国々は、国際秩序に従わない「ならずもの国家」であり、テロ支援国家であると強く批判しました。当時、これらの国々は核兵器や化学兵器・生物兵器などの大量破壊兵器を保持しているとみなされていたからです。
悪の枢軸演説の翌年、アメリカなどの圧力が強まる中、イラクは国際連合による核兵器の全面査察に応じました。国際連合による2003年の調査報告書では、イラクが大量破壊兵器を保持している証拠はないとしつつも、イラク側の報告に多くの疑問点があるなどとして、疑惑は解明されていないとの立場をとります。アメリカやイギリスはこの報告に基づき、イラクが武装解除などに応じていないとして攻撃準備を進めました。