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現在でも日韓関係に影を落とす「三・一運動」とは

日韓併合条約と日本総督府の設置_日本の植民地化

1910年に朝鮮総監府を置いた日本は、植民地支配に入ったのです。朝鮮総監府は、憲兵警察制度を導入して、軍隊による徹底した軍事支配を行いました。さらに、土地調査事業を行って土地の権利者や所有権が確認できないことを口実にして、農民から土地を奪ったのです。さらに、会社令を出して朝鮮人による会社設立に強い制限を設けて、徹底した収奪を行い、朝鮮国民の恨みを買いました。その恨みが、やがて三・一運動につながっていったのです。

これらによって得られた資金は、遼東半島からハルピンに延びる南満州鉄道や関東軍の満州支配に使われました。

三・一運動につながった民族自決運動とは

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ヨーロッパの強国は、16世紀から、アジア、中南米、アフリカなどで植民地化を進め、そのために、強国同士が戦争もしていました。そして、植民地で綿、糸などを輸入して、それを産業革命で生産力の拡大によって製品化して、それらを植民地や他国に輸出して儲けていたのです。

植民地では、従来自分たちの食糧のための農業をしていましたが、強制的にヨーロッパ強国の原材料になる綿、ゴムなどの作物に転換させられました。これを強制栽培と言います。そのため、現地の人々は低賃金でその作物栽培に従事させられ、非常に苦しい生活を強いられていたのです。

このような状況に対して世界各地の植民地では、19世紀以降、植民地支配に対する抵抗運動に対する機運が高まり、独立運動が盛んに行われるようになっていました。しかし、ヨーロッパの強国は、1880年代にアフリカの植民地支配権を各国で取り決めをするベルリン会議を開催し、植民地支配を方向転換する気配を見せなかったのです。さらに、1898年には、アメリカ合衆国も、スペインとの戦争に勝利して、カリブ海諸国やフィリピンを植民地としています。

従って、日本が朝鮮半島を植民地化することに対しても、ヨーロッパ強国は、特に反対をしませんでした。

アメリカのウィルソン大統領の民族自決論はどうなった?

そのような中で、1918年にアメリカ大統領であったウィルソンは、各植民地は民族自決、すなわち自分たちで何事も決める権利があることを提案したのです。ロシアでは、下層民であった労働者層による共産革命が成立しており、植民地氏を受けていた人々は、特に知識人を中心に独立機運やナショナリズムが高まっていました。

しかし、第一次世界大戦後に行われた講和会議のベルサイユ会議では、ヨーロッパ強国は、そのような運動や約束を無視して、事実上独立していたエジプトなどの一部を除いて植民地主義を改めず、各国の独立も認められませんでした。

三・一運動の犠牲者多発と朝鮮総監府の姿勢変化

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第一次世界大戦後に高まった独立運動であった朝鮮半島の三・一運動も、朝鮮総監府は軍隊を動員して鎮圧し、多くの逮捕者や多くの死亡者まで出ました。日本の警察は否定していますが、死者は7,509名、逮捕者46,303名という説も当時の亡命者の記録には出ています。この記録は伝聞となっていますが、警察発表でも、逮捕者は12,668名となっていますから、多くの犠牲者が出たことは否定できません。死者の正式な記録はありませんが、やはり多くの方が亡くなっていると考えるべきでしょう。

三・一運動の結果による朝鮮総督府の変化

三・一運動の様子は日本国内でも報道されましたが、当初は運動に対して批判的な記事が多かったものの、武力に頼った統治に対する批判も高まりました。当時の原敬内閣は、方向転換を指示するようになるのです。警察は否定していますが、実際に多くの犠牲者が出たことから転換せざるを得なくなったと言えます。

朝鮮総督府は、軍事力に頼る支配から日本人への同化政策に転換していったのです。しかし、日本人への同化に対する抵抗も強く、朝鮮半島の人々の心には強く反日記憶として刻まれたと言えます。

現代の日韓関係の問題点

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現代は、2018年以降、再び日韓関係は悪化しています。その根底には、やはり第二次世界大戦前の日本による植民地支配が強く影響していると言えるのです。

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