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ショパンの名曲7選!繊細なメロディーをショパンの人生と共に紹介

普段テレビなどで何気なく耳にするピアノの美しい音色。それ、実はショパンの曲かもしれません。彼が主に残したのは、ピアノで演奏される作品。演奏者にも、クラシック愛好家にも大人気のものばかりです。今回はピアノの魅力を存分に引き出した名曲の数々を、ショパンの人生に触れつつ紹介します。

「ピアノの詩人」、ショパン

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ショパンの曲をより理解するために、彼の生いたちについて少し目を向けてみましょう。ショパンはフルネームをフレデリック・フランソワ・ショパンと言います。生年月日については諸説がありますが、1810年3月1日、ワルシャワ公国(現在のポーランド。ナポレオンが作った国)に生まれました。ショパンの家族は音楽一家であったため、小さな頃から音楽が身近にある状態でした。母親・ユスティナの弾くピアノに興味を示し、幼少期から自作のメロディーを作るなどしていたようです。父親・ニコラはフルートとヴァイオリンを嗜んでいました。

そしてなんと7歳という年齢で、『ポロネーズ ト短調』を作曲し、出版しています。神童という共通点のある、モーツァルトとも比較されていたようです。ピアニストとしても活躍したショパンは、演奏者としてもこの頃からすでに頭角を現していました。ショパンの作った曲はピアノ独奏曲がほとんど。ピアノ曲の世界を広げ、また大きく発展させた彼は「ピアノの詩人」の異名を持っています。1849年に39歳で亡くなるまでに、彼はたくさんの名曲を残しました。ピアノの演奏会において、ショパンの曲は今でもよく演奏されますよね。

#1 ピアニストの友人へささげた『革命のエチュード』

最初に紹介するのは、『練習曲ハ短調作品10-12』。……というタイトルだと分かりにくいですね。通称である『革命のエチュード』だと、聞いたことがあるという方も多いのではないでしょうか。この『革命のエチュード』は、ショパンが友人であったフランツ・リストへささげた曲です。リストはショパンと同時代に生きたとても有名な作曲家で、超絶技巧を得意とするピアニストでもありました。『革命のエチュード』はとても難易度の高い曲です。

この曲の背景には1830〜1831年に起きた11月蜂起(カデット・レボリューション)があると言われています。これはポーランドとリトアニアによる、ロシア帝国への反乱でした。蜂起の失敗を知ったショパンは心を痛め、とても悲しんだそう。実際、『革命のエチュード』が発表されたのは1831年です。身体が弱かったというショパンはその戦いに参加することができず、音楽で「革命」を表したとの説があります。ただ、この曲に想いを込めたというエピソードは作り話であるとも考えられていて、本当のところショパンがどのような思いで『革命のエチュード』を作曲したのかは分かりません。しかしどちらにしても、そんな激動の時代を生きたショパンだからこそ、このような名曲を生み出すことができたのかもしれませんね。

#2 夜を想う、甘い旋律『ノクターン』

「ノクターン」とは、日本語で言うと「夜想曲」。夜にぴったりの、静かでゆったりとした楽曲。ただその特徴はあくまで目安であり、ショパンによる作品のなかには夜というよりかは朝を思わせるノクターンもあります。ノクターンはジョン・フィールド(1782〜1837年)というアイルランドのピアニスト兼作曲家が始め、ショパンが完成させたジャンルです。ショパンはノクターンを全部で21曲も作曲しています。20歳ではじめてのノクターンを作ったあと、生涯にわたってノクターンは作り続けられました。そのなかでも特に有名なのが、『夜想曲第2番』。1831年の作品です。「ショパンのノクターン」とだけ言えば、この曲を指すことが多いでしょう。

『夜想曲第2番』は、ロンド形式風。左手で三拍子のリズムを繰り返し、右手で甘い雰囲気のあるメロディーが少しずつ変化しながら奏でられていきます。そのメロディーが変奏されていくさまは、まるで誰かが歌っているかのよう。この装飾的な変奏にはイタリアオペラの影響があるとも考えられています。

#3 旋律の美しさにうっとり!『別れの曲』

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『練習曲作品10-3』は通称『別れの曲』。1832年に作曲されたこの曲は、前述の『革命のエチュード』とは打って変わってゆったりとしたテンポの曲です。レント・マ・ノン・トロッポの遅いテンポのなかで、その旋律をいかに美しく弾くかというのが重要になってきます。『別れの曲』と『革命のエチュード』は、そのタイトルからも分かる通り『12の練習曲 作品10』という曲集のなかにある一曲。『別れの曲』が第3番で、『革命のエチュード』が第12番なんです。ちなみにエチュードは練習曲という意味。ここですべては紹介しませんが、ほかの10曲も良い曲ばかりなのでぜひ聴いてみてください。

通称の『別れの曲』はショパンが付けたわけではなく、後世の映画作品である『別れの曲』のタイトルがもとになっています。これは1934年にドイツで製作された、ショパンの一生を描いた映画です。この曲を作ったころのショパンは、ポーランドからパリに移り住みました。当時『別れの曲』という通称はなかったのですが、故郷を離れる際の寂しさが伝わってくるような気もしますね。

#4 ショパン自身は出版する気がなかった?『幻想即興曲』

ショパンは生涯で、4曲の即興曲を作ります。そのなかの一つが、『幻想即興曲』でした。1834年に作られたこの曲は、ショパンが一番最初に作った即興曲でもあります。私自身ピアノを習っていたことがあったのですが、この曲は「いつか弾きたい」というひとつの目標でした。『幻想即興曲』のタイトルはショパンが付けたわけではなく、ショパンが亡くなった後の1855年に付けられたもの。友人であったユリアン・フォンタナによって遺作として出版されたのが、『幻想即興曲』なのです。即興曲だから、その場ではなく後々に楽譜が作られるのですね。

しかし、ショパン自身も楽譜としてこの曲を残してはいたようです。この自筆譜は1962年になって発見されるのですが、なぜショパンは自身で出版しなかったのでしょうか。その理由は、『幻想即興曲』の出来に納得がいっていなかったから、と言われています。ベートーヴェンの「月光」や、モシェレス(チェコの作曲家)の即興曲と似てしまったから、ショパンは『幻想即興曲』を公表しなかったとも考えられていますが、本当のところは分かっていません。

#5 ポロネーズの意味とは?『英雄ポロネーズ』

1842年に作曲された『ポロネーズ第6番』。これは『英雄ポロネーズ』の呼び名で有名な曲です。ショパンはこの曲のほかにもいくつかポロネーズを作曲。『軍隊ポロネーズ』や『幻想ポロネーズ』などがあります。「ポロネーズ」という単語には「ポーランド風の」という意味があり、ポーランドで踊られていた民族舞踊がもとになっているそう。これがドイツなどのヨーロッパにおいて、音楽のジャンルとして成立。ポーランド生まれのショパンの愛国心から、この「ポロネーズ」が作られたとも言われています。

『英雄ポロネーズ』を作った当時、ショパンはフランスの小さな村・ノアンで夏を過ごしていました。そこにはショパンと生活をともにしていた女流作家・ジョルジュ・サンドの別荘があり、静かな環境はショパンに多くの作品を生み出すことを可能にさせます。ちなみにサンドは後述の『子犬のワルツ』のもとになったという子犬の飼い主。華麗なメロディーや力強さはまさに「英雄」を思わせ、日本のテレビドラマにも印象的な場面でよく使用される非常に人気の高い曲です。

#6 深い悲しみのなかで作られた『ピアノソナタ第3番』

1844年5月、ショパンの父・ニコラが亡くなります。その悲しみのなかでショパンは『ピアノソナタ第3番』を作曲。『英雄ポロネーズ』同様、恋人・サンドの別荘で作り上げられました。ショパンが作ったピアノソナタは3曲ですので、この曲は最後のピアノソナタです。実は「ピアノソナタ」という形式に縛られることが苦手だったというショパン。1828年に作曲された第1番は、後の2曲に比べてあまり演奏される機会もなく、習作として扱われているそうです。しかし第3番は大作としてとても人気があり、ショパンがついに「ピアノソナタ」を自分のものにしたという感じがしますね。

『ピアノソナタ第3番』は全4楽章で構成されています。ショパン以前の「ピアノソナタ」は3楽章構成が主流だったのですが、ショパンのそれはすべて4楽章で構成。こういったところにも、ショパンのこだわりが感じられます。転調をいくつか重ねた末、最終的に長調で締めくくられる最後の第4楽章。悲しみのさなかで作られた曲ですが、長調で終わることで一筋の希望のようなものを感じさせられるような気がしませんか。

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