- ポーツマス条約とは何か
- ポーツマス条約の前提になった日露戦争と日本・ロシアの事情
- 三国干渉による遼東半島の放棄とロシアに対する国民感情の高まり
- 日本国民の怒りによるロシアとの戦争機運の高まり
- 伊藤博文のロシア開戦回避の動きとその失敗
- ロシアの国内事情も深刻
- 日英同盟の締結と日露戦争の勃発
- ポーツマス条約の前提となった日露戦争は日本の勝利へ
- 日本もロシアも財政的に追い詰められていた
- アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋
- ポーツマスで日露講和会議の開催
- 譲れぬロシアに全権大使小村寿太郎も妥協
- ポーツマス条約の調印へ
- ポーツマス条約で日本が得たものと国民の反発
- ポーツマス条約に対する国民の不満爆発_日比谷事件
- 中国大陸への足掛かりとなる遼東半島の租借権と朝鮮半島の支配権
- 日本陸軍にとっては絶好の機会到来
- ポーツマス条約後のロシア
- ロシア革命によってロマノフ王朝の崩壊
- 児玉源太郎の対ロシア戦略の勝利という噂
- 小が大を制したが犠牲は大きかった_でもそこから得たものは大きかった
- 時には決断も必要だが、準備は怠りなくやった結果がポーツマス条約
この記事の目次
ポーツマス条約とは何か
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日露戦争からすでに110年以上を経過し、ポーツマス条約という言葉は学校の教科書以外ではほとんど目にしなくなりました。そのため、ポーツマス条約といっても知らない方が多くなっています。すなわち、1904年に起こった日露戦争の後処理をした講和条約なのです。しかし、この条約の結果として、日本は戦争に向けて突き進んでしまい、最近では日韓関係のこじれている原因のきっかけともなっています。慰安婦問題や徴用工問題が起こった根本原因なのです。
このポーツマス条約は、現代の私たちにとって知らないでは済まされない重要な条約だったと言えるでしょう。
ポーツマス条約の前提になった日露戦争と日本・ロシアの事情
ポーツマス条約を語る前に、日露戦争がなぜ起こったかを知っておく必要があります。日露戦争は、明治維新以降に日本が関わった戦争でも、初めて戦死者が1万人を越えた悲惨な戦争でした。特に、映画「二百三高地」で描かれた攻防戦では多くの兵士たちが犠牲になっています。
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三国干渉による遼東半島の放棄とロシアに対する国民感情の高まり
もともとの日本とロシア帝国の対立は、日清戦争後の1895年の下関講和条約で、日本が朝鮮半島の介入権を獲得すると共に、遼東半島の割譲を中国から得たことがきっかけになっていました。当時のロシアは、南下政策をとっており、港の凍結しない地域への進出を目指し、朝鮮半島の利権や中国への進出を狙っていたのです。従って、日本が日清戦争に勝って、朝鮮半島の利権を手に入れ、さらに遼東半島を譲渡されたことに対して危機感を持ちました。ドイツ、フランスと伴って、三国干渉と呼ばれる中国から譲渡された遼東半島に対しての異議を唱えます。そのため、日本は、せっかく手に入れた遼東半島を放棄せざるを得なくなったのです。
日本国民の怒りによるロシアとの戦争機運の高まり
これに対して、日本国内の世論は、ロシア憎しに集中しました。さらにロシアは、日本が得た朝鮮半島の利権に対しても、それを無視して中国のいなくなった朝鮮への干渉を始めたのです。せっかく得た日本の大陸への足掛かりをロシアによって踏みにじられ、日本政府のなかでも戦争やむ無しの声が高まっていきました。そのため、20世紀に入る頃には、対ロシア戦争に対する日本人の支持は高まっていったのです。
そして、もう一つ、下関条約で忘れてはならないものに清の賠償金があります。この当時の国家予算8千万円をはるかに越える賠償金3億6千万円は、北九州の八幡製鉄所などの国家事業として使われ、日本国内の工業化に寄与したのです。これが伏線になり、日露戦争後のポーツマス条約でも国民は多額の賠償金を期待していました。
伊藤博文のロシア開戦回避の動きとその失敗
しかし、20世紀に入ったばかりの日本はまだまだ工業化が始まったばかりでした。当時、すでに大国と言われ、軍事力も大きいロシアと戦争することの無謀さから、戦争に反対し、回避しようとする動きもあったのです。当時、日本の政界では、伊藤博文と山県有朋が凌ぎを削っていました。山県は、陸軍と長州閥の政治家を率いており、対ロシア強固派として有名です。それに対して、同じ長州の松下村塾出身の伊藤は、政党政治を目指して立憲政友会を率いていました。彼は、日本の国力や軍事力がまだまだヨーロッパ先進国に比べて劣っていることを知っており、財政的にも戦争をする余地がないことを知っていたのです。そのため、対ロシア戦争は時期尚早と見て、ロシアとの外交交渉を積極的に行いました。
しかし、伊藤博文のロシア交渉は失敗に終わり、戦争は避けられなくなります。そのため、伊藤は戦争回避が難しいとなると、今度は当時世界一の工業国であったイギリスに支持を求めることにしたのです。
ロシアの国内事情も深刻
一方、大国ロシアも国内事情はよくありませんでした。産業革命がすでにヨーロッパ列強ではかなり進んでいたのに対して、ロシアが産業革命に取り組んだのは19世紀半ばからでした。そのため、無理な産業化によって、かつて農奴と呼ばれた国民の多いロシアでは、当時のロマノフ王朝に対する不満が高まっていたのです。工業化が進まないために、ロシアの財政も行き詰まっていました。そのために、ロシア内でも戦争に対して反対する動きがありましたが、結局、南下政策を推し進めようという声に押されて皇帝は戦争に踏み切ります。でも、まさかこの当時はまだ小国に過ぎない日本に負けるとは思っていませんでした。
日英同盟の締結と日露戦争の勃発
伊藤博文の努力により、日本は日英同盟を成立させ、対ロシア戦争に対する側面援助を得ることに成功します。その結果、世論の主張にも押されて、日本もロシアとの開戦に踏み切ったのです。