最強の城ランキングTOP15!古代から明治時代まで日本の最強の城をわかりやすく解説
4-2.徹底抗戦の構えを見せる忍城
40倍もの戦力を持つ豊臣軍はさっそく攻略にかかりますが、城兵の士気は高く攻めあぐねることになりました。城代の泰親が急病で亡くなりますが、それでも息子の長親が代わりを務めて奮戦。いっこうに城が落ちる気配すらありません。
忍城は湿地や沼に囲まれた要害の城。そこをあえて三成は、豊臣秀吉の指示で堤防を築いて川の水を引き入れ、忍城を水攻めにすることになったのです。
みるみる水かさを増し、城はまるで水に浮かぶ船の如し。城内も水浸しとなり大きな被害を受けますが、それでも城は降伏する素振りも見えません。
4-2.甲斐姫の登場
さらに豊臣軍には浅野長政らの援軍が到着。いよいよ満を持して総攻めにかかることになりました。殺到してくる豊臣軍に対して長親自ら出陣しようとしますが、それを押しとどめて敵を迎え撃たんとする女武者がいました。
その女性こそ城主氏長の息女「甲斐姫」だったのです。歳はまだ20歳そこそこ。緋縅の華麗な甲冑に身を包み、艶やかな女武者ぶりは周囲の目を引いたといいます。
「敵は大軍といえど狭い一本道しか通ってはこぬ!関東武者の意地を見せてくれん!」
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4-4.際立った甲斐姫の武者ぶり
江戸時代に書かれた「成田記」によれば、甲斐姫は成田家伝来の名刀浪切を携えると、手勢200騎を率いて佐間口へ押し寄せる敵へ果敢に突撃。手ずから敵兵を幾人も討ち取り、ついには敵の侵入を阻んだのです。
また持田口の戦いでは成田勢に死傷者が続出し、破られる寸前に甲斐姫が到着。姫を女と侮った敵の武者が「それがしの妻にしてくれよう!」と言うやいなや矢で射落とし、敵勢はその武勇に恐れおののく有様。そうして味方の危機を救ったのでした。
そうして関東各地の北条方の城が次々に落ちていく中、忍城は最後まで持ちこたえたのです。
4-5.その後も発揮された甲斐姫の武勇
やがて籠城を続けてきた忍城は開城します。小田原城が降伏し、成田氏長から指示があったためです。城から退去する際、甲斐姫たちは甲冑に身を固めて威風堂々と去っていったとのこと。
その後、氏長はじめ成田一族は会津の蒲生氏郷の客将として城を預けられることになりました。その際、新たに浜田という兄弟を召し抱えます。しかし兄弟は氏長が出陣している間に逆心を抱き、城を乗っ取り、氏長の妻まで殺してしまったのです。
その報に接した甲斐姫は、わずか10数人の供回りを従えて果敢に反撃。まず浜田の弟を討ち取り、その後、自ら浜田の兄と戦って右腕を切り落とした上で生け捕りにしたそうです。この武勇と美貌を兼ね備えた姫の噂は遠く京にまで聞こえました。
4-6.甲斐姫の後日譚
会津で活躍したという甲斐姫の武勇伝を伝え聞いた豊臣秀吉は、甲斐姫をいたく気に入り、側室とすることに決めました。また父の氏長も甲斐姫の口添えもあって晴れて大名となることができたのでした。
甲斐姫の晩年は、秀吉の子秀頼の養育係を務めたとも、大坂の陣後に秀頼の娘だった天秀尼と共に東慶寺へ入ったとも伝えられています。
鎌倉の東慶寺といえば、女性たちの駆け込み寺として有名になったお寺ですね。
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5.【第11位】朝廷の「北の拠点」となった牙城~多賀城~
朝廷の勢力が東へと拡大していた奈良時代、蝦夷との戦いの中で生まれたのが「北の拠点」こと多賀城でした。朝廷軍はこの城を起点としてさらに北へ北へと兵を進めていったのです。
5-1.蝦夷鎮撫のために造営された多賀城
多賀城は724年に、のちに鎮守府将軍となる大野東人(おおののあずまびと)によって築かれました。この城は、四周に長大な塀を築いて門を固めたもので、まるで宮殿のような佇まいだったと思われます。
塀の一辺が1kmほどもある広大な敷地で、門は東・西・南にありました。また多くの兵を駐屯させる軍事拠点であると同時に、行政府の役割を持たせた面もあったのです。
異民族である蝦夷を鎮撫し、国が進める律令制を東北地方に広めようという意図がありましたし、鎮守府もここに置かれたため、蝦夷に対して目を光らせる朝廷側の拠点として大きな役目を果たしていました。
5-2.時代とともに急速に役割を失った多賀城
869年に起こった貞観地震による津波で、壊滅的な被害を受けた多賀城は、その後復興されるものの急速にその役割を失っていきました。東北各地に豪族が割拠し、その勢いを抑えきれなくなったためです。
「前九年の役」「後三年の役」では軍事拠点として活用されたり、平安時代末期には奥州藤原氏の権威付けに利用されるなどしますが、「朝廷の北の拠点」としての役目は終わったも同然でした。
南北朝時代に南朝方の北畠顕家が、陸奥国府として多賀城を拠点としますが、その後は歴史の表舞台から消え去ることとなりました。
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6.【第10位】神出鬼没のゲリラ作戦で勝利~吉田郡山城~
中国地方を代表する戦国大名に成長した毛利元就が、生涯にわたって本拠地にした城が吉田郡山城です。しかし元就は順風満帆なまま中国の覇者となったわけではありません。数々あった危機の中で、最大のピンチといえるものが「吉田郡山城の戦い」でした。
6-1.尼子氏と手を切り、大内氏と結んだ元就
毛利氏はもともと安芸国(現在の広島県)の在地領主に過ぎませんでした。そのため当時、覇権を争っていた大内氏と尼子氏の狭間にあって、生き残りを模索していたのです。
元就が家督を継いだ頃は尼子方に付き従っていましたが、度重なる嫌がらせや無理難題を押し付けられ、ついに我慢の限界に達した元就は、尼子氏を離反して大内方に味方することを決意しました。
まるで飼い犬に手を噛まれたように感じたのが尼子氏の当主詮久でした。裏切った毛利氏に誅伐を加えるべく、1540年、3万と称される大軍を吉田郡山城へ派遣したのでした。
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6-2.吉田郡山城攻防戦
いっぽう守る毛利軍は2,400という少勢で、毛利軍は周辺の民百姓すべてを吉田郡山城に籠らせ、籠城戦を取ったのです。
尼子軍は吉田郡山城を取り囲むかのように、いくつもの陣城を築き、包囲の構えを取るのですが、毛利元就は少ない部隊を効果的に駆使し、伏兵や巧みな戦術を用いてよって尼子軍を翻弄します。
各地で手痛い反撃を食らった尼子軍は5ヶ月もの間、なんの戦果もなく無駄に時間を過ごし、兵たちの士気も下がってしまう有様でした。やがて救援にやって来た大内軍の前にして撤退を余儀なくされたのです。
7.【第9位】幕府軍を手玉に取った楠木正成の戦略~千早城~
南北朝時代に活躍した楠木正成は、まさに戦術の天才といえる人物でした。鎌倉幕府打倒と後醍醐天皇を盛り立てることに命を捧げ、その活躍ぶりは後世にまで伝わっています。中でも鎌倉幕府軍を相手にした千早城の戦いは、彼の真骨頂といえるものでした。
7-1.後醍醐天皇に呼応して挙兵
鎌倉時代末期の1331年、後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒運動を起こし、河内国(現在の大阪府南部)の武士だった楠木正成も呼応して兵を挙げました。剽悍で強い者を指す「悪党」と呼ばれ、幕府の大軍を相手に奮闘するのです。
赤坂城に籠城した楠木勢は、幕府軍を引き付けて勇敢に戦いました。少数の兵ならではのゲリラ戦術を駆使し、大いに敵を悩ませたといいます。
ところが後醍醐天皇が笠置山で幕府側に捕まってしまい、隠岐へ流されてしまうのです。天皇がいなければ抗戦しても意味はありません。正成はわざと城を落とし、自分は戦死したという噂を流して行方をくらましてしまいました。
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