幕末日本の歴史江戸時代

戊辰戦争の台風の目「河井継之助」とは?藩政改革に邁進した長岡藩の家老の人生を解説

幕末の風雲児と称される「河井継之助(かわいつぎのすけ)」は、戊辰戦争の中で起きた北越戦争(ほくえつせんそう)で、新政府軍と勇猛果敢に戦った人物です。文政10年に西郷隆盛と同じ年に生まれるも、真逆な人生を送ります。また、「西の龍馬、東の継之助」と称賛された、幕末動乱期の影の英雄なのです。今回は、藩政改革に邁進した長岡藩家老「河井継之助」の人生をご紹介します。

1.不屈の精神をもつ継之助

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「河井継之助(かわいつぎのすけ)」は、武士としての不屈の精神を貫いた人物です。幕末動乱期のラストサムライと称されています。新政府軍50,000人に対し、たった700人足らずで戦い、自身もその時の傷が原因で絶命しました。381万部を超える大ベストセラー司馬遼太郎著『峠』では、英雄の悲劇に涙した方もいらっしゃるのでは?2020年秋に映画『峠 最後のサムライ』が放映。それでは、彼の生い立ちから見てみたいと思います。

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1-1長岡藩の真のリーダーの誕生

世界に向けた視野をもち近代日本の先駆者として、坂本龍馬とライバル視される河井継之助。越後国長岡藩(現:新潟県長岡市)内では新参組で、中級クラスの家柄の出です。でも、屋敷の他に貸家や田地などを持ち、家禄の割には裕福に暮らしています。

文政10年1月1日(1827年1月27日)に、城下の長町で長岡藩士河井代右衛門と貞の間に、7人兄弟の長男として誕生しました。幼名は継之助で、諱は秋義(あきよし)、号は蒼龍窟(そうりゅうくつ)です。河井家では、成長すれば代右衛門を継ぎますが、継之助で生涯通します。

少年時代は年上にも、喧嘩を仕掛け向かって行く、勝気な子どもでした。でも、負けて傷だらけになっても、両親にその理由を打ち明けなかったようです。

ちょっと雑学

継之助の父は、僧の良寛と親交がある有識者でした。藩では勘定頭を勤めるほど、算術にも長けています。先で、継之助が藩財政を立て直せたのは、師からの影響だけでなく、血筋も影響していたのかも。

1-2師匠たちもお手上げ

継之助は、師匠も手こずる問題児でした。藩士三浦治郎平に馬術を習うも、流儀に従わず疾走し大目玉を食らいます。激しく叱責されてもケロリとして、「馬術は駆けることと止まることを知っていれば十分。」と言い放ったようです。

武術でも「弓馬槍剣は、使えれば十分。」と言い放つ始末。勉学や体を鍛えることには積極的でしたが、実役に繋がらないことはしない頑固な一面も。「傲岸不遜」の継之助の姿勢に、師匠たちもカンカンだったとか。

「武術ではなく、これからは銃砲や軍艦を用いた戦いが主となる。」と悟っていました。侍として正義を貫きつつもリアリスト的な継之助の人生観は、既に生まれたのです。勝気で傲岸不遜な性格がなければ、先でお話しする小千谷談判で失敗もなく、長岡藩の歴史も変わっていたかも。

1-3陽明学へと傾倒する

天保12(1841)年から「藩校崇徳館(そうとくかん)」に通い、封建制度の維持を教える学問「朱子学」と知行合一(ちこうごういつ:知識と行動は一致するべき)を旨とする「陽明学」を習いました。知識と行動が結びついた「知行合一」という、実践と立志を重視し、秩序より行動という学問は、継之助を夢中にさせ次第に「陽明学」へと傾倒します。

天保14(1843)年の17歳の時に、陽明学の祖「王陽明」の本を読み漁りました。王陽明の霊を祀り、「貧しい人のためになる立派な人物になろう」と誓う儀式まで行ったのです。盆踊り好きで、長岡城下での祭りに出没し、手ぬぐいを被り頻繁に参加していたとのユニークな逸話も残っています。

ちょっと雑学

儒教の中には朱子学と古学と陽明学があります。朱子学は、現状維持を旨とし身分秩序を重視した学問で、幕府に都合が良くこの時代の正学でした。都講を務めた高野虎太は、佐藤一斉の門下となり昼は昌平黌で朱子学、夜は一斉の私塾で陽明学を学んでいます。だから継之助は運よく、朱子学と陽明学の両方を学べたのです。

2.燻っていた青年時代

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不明 – この画像は国立国会図書館ウェブサイトから入手できます。, パブリック・ドメイン, リンクによる

師匠たちの評判が悪かったため、若い頃の継之助は江戸遊学が許されず燻る青年期を送ります。結婚後も、父が当主で部屋住みの立場。藩政デビューは、重職たちに迫害される辛いものでした。それでは、継之助の青年期を見てみましょう。

2-1一人前になれず焦る継之助

24歳の継之助は、自身のよき理解者で藩士梛野嘉兵衛の16歳の妹「すが」と結婚します。すがは、終生継之助を信じて支え尽くしたとか。崇徳館での学問を修了するも、父から家督を譲られません。藩から声もかからず、卑屈な日々を送ります。

藩校での成績は優秀でしたが、遊学の許可すら下りなかったのです。20歳の頃から悔しさを紛らわせるが如く、好みの本を書写して独学に勤しみました。嘉永5(1852)年26歳の春に、やっと江戸遊学が許されます。

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