日本の歴史江戸時代

「火事と喧嘩は江戸の華」の由来~大火災と戦った人々の歴史~

あらゆるインフラが完備され、災害に対しても様々な想定がなされている現在の東京。しかし、「江戸の町」と呼ばれていた昔には、そんな災害対策用の設備など何もなく、ひとたび火事ともなれば、ひたすら人力に頼る防火活動が行われていました。江戸時代はまさに、火事との戦いの時代だったともいえるでしょう。そんな中、当時の幕府や役人、火消しや庶民たちがいかにして火災に立ち向かい戦ったのか?紐解いていきましょう。

巨大な江戸城の出現と天下普請

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江戸(東京)の町は、江戸時代~平成の今日まで日本最大の都市であることに変わりはありません。江戸の最盛期である18世紀初めには130~150万人も人口があったといわれています。同時期のロンドンでは86万人、パリは55万人でしたので、江戸がいかに大きな町だったかがわかりますね。そんな巨大都市「江戸」がどのように誕生したのか?まずはその歴史をさかのぼってみましょう。

江戸城の天下普請始まる

1590年、関東の覇者であった小田原北条氏が滅亡し、その後に関東へ入府してきたのが徳川家康でした。みすぼらしい小城だった江戸城へ入城しますが、当時の江戸は付近に100軒ほどの漁村がある程度で、海は近いが葦が生い茂る湿地ばかりの土地だったそうです。

しかし、家康が関ヶ原合戦で勝利した3年後に征夷大将軍となり、江戸に幕府を開くと江戸の状況は一変します。まずは、天下の将軍の居城に相応しいものとするべく江戸城の大改修が行われることに。土造りの江戸城が、総石垣造りに生まれ変わり、五層の天守閣がそびえる大城郭となったのです。もちろん、その敷地も大拡張され、現在の皇居東御苑や吹上御所、北の丸公園などを含む一帯が内曲輪と呼ばれました。

この一連の大工事は足掛け30年にも及び、天下普請といって、主に西日本の外様大名たちの労力で行われたものでした。将軍の権威の象徴を造り上げつつ、外様大名の財力を削ぐ。まさに幕府にとっては一石二鳥の事業だったのです。

本格的な都市計画始まる

江戸城の大改修と同時に、江戸を日本の政治・経済・文化の中心地とすべく、本格的な都市計画事業がスタートしました。これもまた諸大名の天下普請によるものです。当時の幕府がいかにケチケチだったかが伺い知れますね。

当時は神田に小山があり、その山を切り崩して、湿地や干潟を埋めていきました。新しくできあがった土地を大名や旗本の屋敷地とし、諸国の商人や職人なども呼び込んで町人たちの市街地も作らせました。こうして初期の江戸の町は出来上がっていったのです。

ちなみに、幕府が江戸の「城」と「町」を同時に開発していったのには理由があります。実は、屋敷地や市街地なども江戸城の一部として取り込もうとしていたのです。

現在、外堀通りという幹線道路が皇居を同心円状に走っています。実はこの道路に沿って、当時は外堀が掘られていたのです。これは総構えといって、城を守るために市街地ごと取り込んだ築城法だということ。その総構えの堅固さは、小田原城攻めでも、大坂の陣でも証明されている通り、まさに難攻不落であるといえるでしょう。

江戸城はまさに城郭都市だったのです。

【明暦の大火】による都市計画の根本的な見直し

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現在のように耐火力に優れた建材などは皆無に等しく、木造家屋にいったん火がつけば、鎮火させるのは至難の業でした。乾燥した冬場などは特にそうで、瞬く間に火は燃え広がります。そうした悪条件の中で【明暦の大火】は起こったのでした。

明暦の大火で江戸の60%が消失

現在の東京で、下水道工事などで地下を掘り下げると、必ずといっていいほど目に付くのが焼土層と呼ばれるものです。文字通り焼けた土の層で、一番上(新しいもの)にあるものが東京大空襲の時のもの。その下が関東大震災。そして最下層にある焼土層が明暦の大火の時のものだといわれています。

1657年旧暦1月18日、本郷の辺りから出火。湯島、神田、日本橋や駿河台を焼亡し、さらには隅田川へ向かって東方面へ火は燃え広がり、浅草周辺までも焼き尽くしました。

翌日には小石川で出火し、飯田橋から九段下まで延焼。更に南側にも火は燃え広がり、江戸城天守閣はこの時に焼け落ちています。

さらに大小の火災は飛び火しつつ江戸各所を焼き払い、この時の大火で江戸は実に60%が消失し、10万人ともいわれる人々が亡くなりました。さらに被災して焼け出された人は数知れず。原因は様々あれど、ここまで広範囲に延焼した理由は別にあったのです。

それは、木造家屋の建て方に欠点があったということ。市街地の限られたエリアに家屋を建てるには、どうしても長屋や町家のような細長い建築物にせざるを得ず、しかも密集していたために、家屋同士の軒を伝って火が燃え移りました。この時の火の回りは本当に早かったようで、まさに「火が走って追いかけてくる」と表現されるほどなのですね。

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