最強の城ランキングTOP15!古代から明治時代まで日本の最強の城をわかりやすく解説
7-2.これぞ楠木正成の真骨頂!千早城の戦い
1333年、後醍醐天皇の隠岐脱出と時を同じくして、金剛山系に連なる城郭群を築いていた正成が再び兵を挙げました。落とされた赤坂城を奪還し、千早城を中心とした防御ネットワークを構築していたのです。
30万といわれる幕府の大軍が押し寄せてきますが、正成は少しも慌てません。大石を落として敵を圧殺し、熱した油をかけて相手を翻弄しました。また各所に伏兵を忍ばせて機を見て奇襲を掛け、さんざんに幕府軍を苦しめるのです。
さらに幕府軍は大軍ゆえに、正成は周囲の土豪たちを使って糧道(補給路)を封じ込めます。やがて飢えに苦しみ始めた幕府軍はもはや戦う余裕さえなくなりました。幕府方の拠点六波羅探題が落とされるに及んで、ついに撤退したのでした。
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8.【第8位】織田・徳川の勝利を導いた城~長篠城~
織田・徳川連合軍と武田軍が戦い、鉄砲の威力で大勝利したとされる長篠の戦い。しかし勝利の陰の立役者は「長篠城」という小さな城でした。どのような戦いがあったのでしょうか。
8-1.武田の大軍に囲まれた長篠城
三河国(現在の愛知県東部)は徳川家康の領地でしたが、度重なる武田軍の圧迫によって奥三河の領主たちは武田氏に付かざるを得ませんでした。しかし武田信玄の死去をきっかけに家康に味方したのが奥平氏という小領主でした。
信玄の跡を継いだ武田勝頼は1575年、裏切った奥平氏を攻略するべく1万5千の大軍を率いて三河へ出張ってきたのです。長篠城を守るのは奥平貞昌(のちに信昌)でした。
長篠城の兵力は500ほどでしたが、寒狭川と大野川の合流点にある断崖に立つ城で、唯一陸続きの北側には、深い堀があって敵の侵入を頑なに拒んでいたのです。しかし武田の大軍に囲まれた城は風前の灯火となっていました。
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8-2.鳥居強右衛門の活躍
「このままでは城が落ちるのは時間の問題」と考えた貞昌は、水練の達者な剛の者だった鳥居強右衛門を呼び出し、城を抜け出して信長と家康に危急を告げるよう使者に立てました。
首尾よく城を脱出して岡崎城へ向かった強右衛門は、信長と家康に拝謁し、近日中に援軍を寄こすという確約を得ました。もちろんそれを知らせるために再び長篠城へ戻ろうとしたのです。
ところが運悪く途中で武田軍に捕まり、磔にかけられたまま「援軍は来ないと言え」と強要されました。承諾した強右衛門は大音声で城へ叫びます。「おのおの方!もうすぐ援軍はやって来る!辛抱なされよ!」
もちろん強右衛門は処刑されてしまいますが、城兵たちはその姿に勇気を得ました。そして長篠の戦いに至るまで城が落ちることはありませんでした。
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9.【第7位】信長に戦いぶりを称賛された城~佐柿国吉城~
この城は、若狭国(現在の福井県美浜町)に位置し、戦国時代には若狭守護武田氏(甲斐の武田氏と同族)の家臣だった粟屋氏の居城でした。現在の城跡は土を掘ったり積み上げた土塁や空堀などの遺構がよく残り、往年の激戦の跡を物語っています。この佐柿国吉城でどんな戦いがあったのか?順を追って見ていきましょう
9-1.主君を守るために頑強に戦った粟屋勝久
若狭はもともと守護武田氏の勢いが弱く、戦国時代ともなると家臣団もバラバラで空中分解寸前の有様でした。そこに付け込んできたのが隣国越前の朝倉氏だったのです。
1564年、朝倉義景は武田氏保護を名目として若狭へ侵攻し、佐柿国吉城を囲みます。城主粟屋勝久以下、城兵たちは朝倉軍が山の中腹を登ってくるまで放置しておいて大木や大石を投げ落とし、激しく鉄砲を撃ちかけました。
この抵抗の激しさに朝倉軍は大いに怯み、何度攻撃を仕掛けても撃退されるため損害は増えていくばかり。ついに撤退せざるを得ない状況に追い込まれたのでした。
この時の戦いの様子は「国吉城篭城記」という古文書にも如実に描かれているのです。
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9-2.粟屋勢の奇襲
さらに翌年の9月に再び朝倉軍は佐柿国吉城へ殺到します。今度は山の尾根筋から攻めかかってきた朝倉軍でしたが、城兵の鉄砲による攻撃によりあえなく撤退しました。
そのまた翌年にも、今度は陣城を築いて朝倉軍は本格的な攻城に出ます。この状況を見てとった粟屋勢、敵の本格攻撃が始まる前に手を打つべしと、逆にこちらから夜襲を仕掛けることに決しました。
勝久は兵を3手に分け、合図と共に一斉に朝倉の陣へ殺到。この時の戦いで朝倉軍は散々に打ち負かされ、撤退へと追い込まれたのでした。
9-3.ついに佐柿国吉城を守り抜く
こうした佐柿国吉城を舞台にした攻城戦が毎年のように続く最中、1568年、朝倉軍は佐柿国吉城には一切構わずに小浜へ軍を進め、守護である武田元明を拉致して越前へ連れ帰ったのでした。
主君が拉致されたところで勝久へは「朝倉へ臣従するように」と勧告が来ますが、勝久は無視。なおも朝倉軍と戦い続けるのでした。結局、佐柿国吉城は朝倉の猛攻に遭っても落ちず、勝久は織田信長に臣従します。
のちに朝倉攻めの際に、城へ宿泊した信長から「よくぞここまで城を守り抜いた!」と称賛された勝久。やがて織田氏に従い、丹羽長秀の与力となって活躍するのでした。
10.【第6位】大陸からの襲撃に備えた城~大野城~
古代~奈良時代にかけて、西日本に数多くの古代山城が築かれました。その城の規模は相当なもので、現在も遺構がはっきりと確認できるのです。なぜそれほどの城を築く必要性があったのか?また大野城は何のために造られたのでしょうか。
10-1.唐・新羅の報復を恐れた大和朝廷
古代の日本は、朝鮮半島の百済と友好関係を結んでいて、半島に大きな権益を持っていました。ところが唐・新羅連合軍が百済を滅ぼしたことで状況は切迫します。
百済を復興させるべく、派遣軍が結成されて海を渡っていきました。ところが663年に起こった白村江の戦いで日本軍は惨敗し、大きな痛手を負いながら将兵たちは帰還しました。
しかし次に考えられるのは唐・新羅による報復でした。そこで天智天皇は西日本各地に、敵を防ぐための巨大城郭を築くよう命じました。その中の一つが福岡県にある大野城なのです。
10-2.大宰府を守るために築かれた大野城
大和朝廷の西の拠点といえる大宰府。ここを守るために大野城は築かれました。大宰府を望む山上に周囲6.8kmの広さを持つ大城郭が完成したのです。
また厳重に守られた門は9つを数え、城内には望楼や兵舎・倉庫などたくさんの建物群が存在していました。軍事拠点だけでなく行政府も兼ねていたようで、ここに兵士の他に官人や役人なども常駐していたのでしょう。
しかし結局のところ唐・新羅連合軍が押し寄せることはなく、他の古代山城とともに無用の長物と化していきました。やがて人々からも忘れ去られる存在となったのです。
11.【第5位】近世城郭ながら戦うための城~松江城~
松江城は1611年に堀尾氏によって築かれた近世城郭です。豪壮かつ無骨な現存天守は特に美しく、観光客にも人気が高いのですが、実はこの城、戦うための仕掛けがたくさんあるのですね。いくつかご紹介していきましょう。
11-1.敵を決して寄せ付けない水堀
松江城は「水の城」という見方もできますね。周囲を広大な水堀に囲まれ、敵の侵入を阻んでいるのです。
その水堀の規模は全国でもトップクラスで、渡ることはおろか近付くことすらできません。そのため攻める側はどうしても狭い城門付近で渋滞することになります。
そこを城の高所から狙い撃たれるわけですから、たまったものではありません。またすぐ近くに宍道湖があって水堀と直結していますから、城中に物資を運び入れることも可能なわけです。
11-2,敵を誘い込む罠は「枡形」にあり
松江城の大手門は二重構造になっており、たとえ最初の門を突破してきたとしても、次の門は容易に抜くことはできません。ちょうどその空間は中庭のようになっており、周囲には高い城壁が見下ろしているのです。
次の門を突破できないままにいると、城壁の高所から鉄砲や矢で射すくめられ、攻めてきた敵は大損害を被ることになるわけですね。このような空間のことを「枡形」と呼びます。
他の城にも同じような枡形はあるのですが、松江城の場合は全国一の広さを誇るのです。膨大な犠牲者を覚悟しておかないと、城内へ入ることは叶わないほど恐ろしい場所だと言えるでしょう。
12.【第4位】徳川に2度攻められても落ちなかった城~上田城~
NHK大河ドラマ「真田丸」に登場した上田城は、真田昌幸や幸村(信繁)ゆかりの城として有名ですよね。全国各地からの観光客が多く詰めかける人気のスポットでもあります。しかし真田氏が城主だった戦国の頃はまさに戦いの城だったのです。