平安時代日本の歴史

源氏が東国武士の棟梁になったきっかけ「前九年の役」を歴史系ライターが解説

武士という階層が初めて歴史に登場してくる平安時代中期、京都の朝廷から見た東日本は鄙びた僻地そのもので、関東平野は草深い田舎、東北地方にいたっては文化も風習も違う外国のような存在でした。今回ご紹介させて頂く「前九年の役」は、地方役人だった源氏の武士が、地元のヤンチャな豪族を成敗したという朝廷から見れば些細な出来事だったわけですが、なぜか歴史の教科書に載るほどの大きな扱いを受けています。武士の存在が大きくクローズアップされ、その後の源氏の隆盛へと繋がっていったこの事件をわかりやすく解説していきましょう。

朝廷と蝦夷の関係とは?前九年の役前史

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前九年の役のあらましを見ていく前に、まず当時の朝廷と蝦夷(北海道・東北地方)との関係がどうだったのか?そこから解説していきましょう。蝦夷は「えぞ」または「えみし」とも読みます。

日本の先住民だった縄文人とアイヌ人

話がまず脱線する方向になってしまいますが、初めて日本で文化を興したのは縄文人だということを、おそらく皆さんご存じだと思います。縄文式土器などで有名ですからね。

その縄文人ですが、科学的見地からDNAが最も近いとされるのは東北地方~北海道に数多く暮らしていたアイヌ人とされています。ということはアイヌ人と縄文人は人種的に非常に近い存在で、もともと日本に住んでいた先住民は彼らだということが結論付けられるのです。

しかし中国大陸や朝鮮半島から、まるで黒船のように違う人種がやって来ました。それが弥生人と呼ばれる人たちでした。彼らは縄文人より背も高く、顔も少しのっぺりとしていて、稲作や鉄器など優れた技術を日本へ持ち込んできたのです。

異民族による先住民の排除。というのはありがちなことなのですが、この時期の日本でそのようなことは起こりませんでした。弥生人と縄文人との共生、もしくは同化が始まったのです。こうして現在の日本人が形作られていきました。

やがて縄文人と弥生人のハーフである人々は、九州から近畿にかけて強大な勢力を持つに至りました。それがヤマト王権ですね。国内の敵対勢力を討ち平らげたり、朝鮮半島へ渡ってドンパチしたりと、盛んに国家の拡大に努めていたのです。

蝦夷を次々に侵略する朝廷

いっぽうでヤマト王権は東日本へ向けても勢力拡大を目論みます。最も古い記録では日本書紀の中に蝦夷に関する記述が出てきますね。

 

「東の夷の中に、日高見国有り。その国の人、男女並に椎結け身を文けて、人となり勇みこわし。是をすべて蝦夷という。また土地沃壌えて広し、撃ちて取りつべし」

引用元 「日本書紀」景行天皇二十七年二月紀武内宿禰奏言

<現代訳>

東国の鄙びたところに日高見国という国家がある。その国の人間は男女とも髪を結い分け、体の入れ墨を入れ、勇敢で非常に強い。これらを蝦夷という。また土地は肥沃で広大なため、これらを攻撃して奪い取るべきだ。

 

この文言を奏上した武内宿禰は、歴代天皇に仕えた忠臣とされていますから、彼の言葉はずばりヤマト王権の考えそのままを表しているでしょう。それにしても「肥沃な土地を奪い取れ」とはいかにも野蛮で、まるで先住インディアンを迫害した白人たちを彷彿とさせますね。

蝦夷いわゆるアイヌ人たちの強さは、当時のヤマト王権の人々にとって厄介なものだったらしく、狩猟を生業としていた蝦夷は戦いでも勇猛さを発揮しました。有名な豪族、蘇我蝦夷の名「蝦夷」も強さを象徴する意味だったといいますね。

ヤマト王権は大化の改新を境に、改めて「日本国」となったわけですが、頻繁に兵を出しては蝦夷地(東北地方)を次々に侵略していきます。

658年には阿倍比羅夫が軍船を率いて蝦夷の首長恩荷(おが)を降伏させ、北海道南部に住む粛慎(みしはせ)を討ちました。ちなみに恩荷とは現在の秋田地方にいた部族のため、男鹿半島の語源になったとも。

また8世紀に入ると和人たちが次々に東北地方へ入植を始め、各地に柵(いわゆる砦のこと)を築いて蝦夷たちの反乱に備えました。

それでも720年に起きた大規模な蝦夷の反乱や、724年には気仙沼地域や山形地方の蝦夷が乱を起こすなど不穏な状況は続きました。蝦夷鎮定のために多賀城が築かれたのもこの頃です。

朝廷と蝦夷との関係が全面的に決裂したのは770年のこと。宮城地方に住む宇漢迷公(うかんめのきみ)宇屈波宇(うくはう)らが相次いで大規模反乱を起こしたためでした。朝廷側の一方的な収奪に起こった蝦夷たちが一斉蜂起したのです。そしてこれが【38年戦争】という長い戦いの始まりとなったのでした。

坂上田村麻呂の活躍と蝦夷の懐柔工作

8世紀後半に巻き起こった蝦夷の大規模反乱は、燎原の火の如く東北各地へ飛び火していきました。朝廷側は大伴駿河麻呂に引き続いて藤原継縄らを総司令官として討伐に掛かりますが、せっかく叩いてもまた別の地域で新たな反乱が起こるため、一向に反乱が収まる気配を見せません。小倉百人一首で有名な大伴家持も征東将軍の任にあたったそうです。

さらに蝦夷側に英雄が現れることになりました。阿弖流為(アテルイ)です。紀古佐美が率いる5万の朝廷軍を迎え撃ち、卓越した戦術で壊滅させたのでした。

惨敗した朝廷軍は792年、大伴弟麻呂を総司令官に、坂上田村麻呂を副将として再び大軍をもって攻撃を仕掛けました。しかしまたしてもアテルイの頑強な抵抗により失敗。その2年後に田村麻呂の活躍で何とか勝利を得るものの、肝心のアテルイは逃亡してしまいます。

797年、戦功のあった田村麻呂は正式に征夷大将軍に任ぜられ、再び東北の地へやって来ました。これまでの武力による制圧一辺倒では、根本的な解決が望めないと考えた田村麻呂は、兵たちにまず武器を捨てて鍬や鋤を持たせて開墾しながらの進軍を命じました。

また蝦夷が攻撃してくれば容赦なく撃退するものの、「徳」をもって恭順させる方針を貫き通しました。稲作や土木技術なども伝え、その土地の豪族たちを懐柔していったのです。

そして次第に抵抗力を削がれていったアテルイは、ついに朝廷軍に敗れて降伏することになりました。この後、藤原緒嗣が桓武天皇に奏上した【天下徳政の相論】によって「天下の苦しみは軍事と平安京造営であり、この二つの事をやめれば人民は安心するだろう。」という意見に従って、朝廷の方針は「武力による制圧」から「天皇の威光による治世」へと変換するのです。

蝦夷の反乱は10世紀初めまで続くことになりますが、朝廷は移民政策を推進しつつも俘囚(帰属した蝦夷のこと)の長を任命して間接的に支配組織を作り、口分田(民衆に一律に支給される農地)を与えるなど自国民と同じ待遇を与えました。

やがて東北の地でも日本人とアイヌ人との混血が進む結果となり、まさしく日本と同化していくのです。

前九年の役はじまる

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前置きがかなり長くなりましたが、ようやく本題です。こうして朝廷の支配下に組み込まれた東北地方ですが、新たな火種がくすぶろうとしていました。東北地方の俘囚の中でも大きな勢力を誇っていた安部氏が台頭してきたのです。

独立性を強める安部氏

東北地方の軍政を司る鎮守府では、中央の貴族階級が任に就いていましたが、1015年頃に鎮守府将軍だった平維良は曰くつきの人物で、再三にわたって官物を略奪しては財を築いていました。あげくに陸奥守(東北地方の行政長官)と対立し鎮守府将軍を解任されてしまう始末。

そこで陸奥国でも重要な地だった奥六郡の統治を任されたのが安部忠良だったのです。忠良は蝦夷出身の俘囚長でしたが、彼に大きな権限を与えたことにより、安部氏の力は強大になっていきました。

俘囚とは朝廷に帰属した蝦夷のことですが、この頃には日本人とアイヌ人の混血も進み、阿弖流為(アテルイ)といった当て字のような名乗りもなくなりました。その代わり、いかにも日本人っぽい名前が浸透していたのです。「安部氏はアイヌ人だった」という説もありますが、実際のところわかってはいません。

いずれにしても東北地方の中央(今の宮城県~岩手県あたり)に居を構えた安部氏は軍事力も財力も飛び抜けた存在となり、まるで独立国家のような様相を呈していたと思われます。

安部頼良の反乱。前九年の役はじまる

忠良の息子安部頼良が跡を継ぐと、安部氏の専横はますます激しくなりました。朝廷からの命令は公然と無視するようになり、税も納めず、あまつさえ領地の外側に向けて柵を設置するなど明らかに対決の姿勢を示し始めたのです。

この舐め切った態度に陸奥守だった藤原登任(なりとう)は激怒。朝廷に報告の上で討伐軍を編成しました。これが「前九年の役」の始まりとなりました。

1051年、出羽(今の山形県)の豪族の援助を得た登任は数千の兵で安部領へ雪崩れ込みます。対して頼良は、息子の貞任に兵を預けて鬼切部という場所で迎え撃ったのです。結果は安部方の大勝利に終わり、敗れた登任は部下を置き去りにしたまま京都へ逃げ帰る始末。そのまま陸奥守を解任されてしまいました。

いっぽう攻め掛かられたとはいえ、国司の軍に刃を向けた安部親子はもはや朝敵です。登任に代わって陸奥守兼鎮守府将軍となったのが源頼義でした。清和天皇の皇子を高祖父に持ち、頼義の父頼信は「道長四天王」と称されるほどの武勇の士で、まさに武家エリートと呼ぶにふさわしい家柄でした。

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明石則実