日本の歴史鎌倉時代

後醍醐天皇に忠誠をつくした「楠木正成」の生涯について元予備校講師がわかりやすく解説

鎌倉時代末期、幕府の命令を聞かない新興武士たちが現れます。幕府や荘園領主たちは彼らのことを悪党とよびました。河内国、現在の大阪府に勢力を持っていた楠木正成も悪党の一人です。彼は、単なる悪党では終わりませんでした。鎌倉幕府打倒を志す後醍醐天皇に仕え、幾度となく幕府軍に煮え湯を飲ませ建武の新政の実現に力を尽くします。しかし、最後は足利尊氏との戦いに敗れて敗死してしまいました。今回は楠木正成の生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

悪党、楠木正成

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楠木正成といえば、鎌倉時代末期に活躍した知将で武勇に優れた武将というイメージが強いと思います。と同時に、彼は河内やその周辺で勢力をもった悪党でもありました。悪党とはそもそも何か、悪党が活躍する前提となった鎌倉時代の社会の変化とはどのようなものか。また、当時、幕府に仕えた御家人たちが経済的に苦しんだ原因などについてまとめます。

河内の「悪党」楠木正成

鎌倉時代末期から南北朝の動乱の時期にかけて、近畿地方やその周辺地域で「悪党」とよばれる武士たちが精力的に活動します。彼らは幕府や荘園領主・国司など既存の権力に従わず、年貢の横領や年貢の納入拒否などを行いました。

悪党たちは夜討、強盗、山賊、海賊などの行為を行ったため、幕府による取り締まりの対象となります。悪党たちは徒党を組んで乱暴狼藉をはたらきました。楠木正成は河内の土豪であったとも、悪党であったともいわれていますが、定かではありません。しかし、河内周辺で力を持ち一定の兵力を動かすことができたのは確かです。

北条氏と良好な関係を築いていたころは、北条氏に敵対する勢力を討伐していましたが、後醍醐天皇と結びついたのちは反幕府の軍事行動をおこないました。

鎌倉時代に起きた社会・経済の変化

鎌倉時代になると、平安時代に比べて生産量がアップ。その結果、社会も大きく変化しました。正成が活動した畿内では、二毛作が普及します。二毛作とは、春から秋は米、秋から春は麦というように1年で2種類の作物を栽培する農法。これにより、生産力が上がりました。

牛馬が農耕に利用され、山野の草や葉を田畑に敷く刈敷草木灰が肥料として用いられることでも生産力がアップしました。

作物の流通量が増えると取引も活発化。中国から輸入された銅銭を使った取引も盛んになります。すると、領主たちは農作物ではなく、銭で税を納めるよう農民たちに求めました。

経済の先進地域である畿内では農業生産だけではなく、商業活動で経済力を得るものたちも現れます。彼らの一部は経済力を背景に、幕府や荘園領主の命令を聞かない悪党となりました

つまり、悪党が出現した背景には鎌倉時代の生産力アップがあったということですね。

御家人たちの窮乏と永仁の徳政令

畿内の悪党たちが経済力を蓄える一方、鎌倉幕府の屋台骨ともいえる御家人たちの生活は苦しくなる一方でした。

13世紀後半の元寇で御家人たちは「奉公」として元と戦います。しかし、元寇では新たな土地を得られたわけではなかったので、「御恩」は御家人たちの期待よりはるかに少ないものでした。また、分割相続により御家人たちの一人当たりの土地はどんどん小さくなります。

経済的に苦しんだ御家人たちはわずかに残された所領を担保として借金をしました。しかし、借金を返済できないことも多く、その場合は土地を差し押さえられ、無一文になってしまいます。

幕府は永仁の徳政令を出して、御家人たちの借金を事実上帳消しにしました。とはいえ、徳政令は御家人の収入を増やしたわけではなく、問題の根本解決になっていません。御家人たちの生活苦は変わらず、幕府に対する忠誠心も低下していきました。

正成挙兵

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楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは後醍醐天皇の呼びかけに応じて挙兵したからです。後醍醐天皇は鎌倉幕府打倒のため、側近と共に正中の変や元弘の変を起こしますが失敗。隠岐に流されました。正成は赤坂城・千早城で幕府の大軍を翻弄し、後醍醐天皇が再起する助けとなります。1333年、鎌倉幕府は新田義貞に鎌倉を、足利尊氏に六波羅探題を攻め滅ぼされて滅亡しました。

正中の変と元弘の変

1324年、後醍醐天皇は天皇親政を実現するため、側近の日野資朝、日野俊基らとともに討幕計画を立てました。しかし、事前に情報が洩れ、日野資朝らが捕らえられました。この時は、後醍醐天皇は無関係として処罰を免れます。この事件を正中の変といいました。

正中の変の失敗後、後醍醐天皇は延暦寺や興福寺などの畿内の有力寺院に働きかけ、鎌倉幕府打倒の計画を進めます。1331年、後醍醐天皇らの動きがまたもや幕府の出先機関である六波羅探題の知るところとなりました。追っ手を差し向けられた後醍醐天皇は笠置山に脱出。なおも抵抗しました。

笠置山に逃れた後醍醐天皇は各地の武士に挙兵を促します。真っ先に駆け付けた武士の一人が楠木正成でした。正成は後醍醐天皇に従い、河内の赤坂城で挙兵します。

幕府は足利高氏(のちの足利尊氏)、新田義貞らを討伐軍として差し向け後醍醐天皇を捕らえました。この事件が元弘の変です。残るは楠木正成がこもる赤坂城だけとなりました。

赤坂城の戦い

楠木正成は後醍醐天皇の皇子の一人、護良親王とともに赤坂城にこもります。幕府軍は大仏貞直、足利高氏らの率いる大軍で赤坂城を包囲しました。最低でも10,000人ほどの軍勢で楠木正成を討伐しようとしたようですね。

これに対し、楠木正成の手勢は数百人。勝敗はおのずから明らかです。幕府軍は一日で攻め落とせる判断し、一気に赤坂城に押し寄せました。

幕府軍が10,000余の大兵力を数百の手勢しか持たない楠木正成の赤坂城に差し向けた理由は何だったのでしょう。それは、幕府側は楠木正成が軍略に優れていることは知っていたからでした。かつて、正成が北条氏の配下として活動していた際、畿内の反幕府勢力の制圧に活躍していたため、正成の実力を知っていたと考えるべきでしょう。

河内の一土豪を攻めるにはあまりに多すぎる兵力は幕府の正成に対する警戒心が現れていますね。正成は1日で攻め落とせるという包囲軍の予想に反して、1か月余りも赤坂城で抵抗を続けます。

しかし、正成は急造の赤坂城での防衛が限界であることを理解していました。ある日、正成は赤坂城に自ら火を放ちます。その混乱に乗じて正成や護良親王は脱出に成功しました。

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