日本の歴史

最強の城ランキングTOP15!古代から明治時代まで日本の最強の城をわかりやすく解説

12-1.第一次上田合戦

1582年、織田信長が本能寺で斃れると、信州一帯の旧織田領は権力の空白地帯となりました。徳川、北条、上杉などが争奪戦を繰り広げます。やがて徳川氏と北条氏が和睦した際に、真田領の一部を北条氏へ引き渡すよう強要されました。

当時、徳川に属していた真田氏はこれを断固拒否。怒った家康によって征伐を受けることになったのでした。

徳川軍7,000に対して真田軍はわずか1,000ちょっと。真田昌幸は兵力差をものともせず、地の利を生かしてこれを見事に撃退。逃げる徳川兵を追って追撃し大損害を与えました。真田の勇名を一挙に天下に響かせたのです。

12-2.西軍に加担した真田昌幸

豊臣秀吉が亡くなって天下の雲行きが不穏になると、徳川家康は命令に従わない会津の上杉景勝を討伐するため、諸大名を率いて進軍を開始しました。そして現在の栃木県小山のあたりで石田三成挙兵の報に接したのです。

その軍勢の中に真田もいましたが、昌幸は次男信繁と共に離反し、徳川軍を迎え撃つため上田城に籠城する覚悟を決めたのでした。長男信之とは袂を分かつことになりました。

家康率いる本隊は東海道を西へ向かい、いっぽう長男秀忠の率いる別動隊3万8,000はそのまま上田城攻撃のために布陣。かたや真田軍は3,000足らずしかいません。

12-3.第二次上田合戦

ここで昌幸は降伏を装って時間を稼ぎます。目的は戦備を整えるためでした。痺れを切らせた徳川軍が催促しても、のらりくらりとするばかり。

やがて機は熟したと見た昌幸は降伏を翻し、戦闘へと雪崩れ込んだのでした。だまされたと知った徳川軍はいきり立って攻め立てますが、それこそ昌幸の思うつぼ。突っ込んできた徳川兵に対して伏兵を用いて散々に切り崩し、徳川軍はまたもや真田に大敗を喫したのです。

秀忠は上田城攻略をあきらめ関ヶ原へ向かいますが、とうとう間に合わず。この後、西軍が本戦で敗れたため昌幸父子は蟄居させられますが、真田の武名は後世へと語り継がれていくことになるのです。

13.【第3位】豊臣の大軍でも落とせなかった城~小田原城~

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現在の小田原城は、江戸時代の石垣や復興天守などがあるのみですが、かつて北条氏が支配していた頃、「土で造った巨城」というべきものでした。上杉謙信や武田信玄など数多の敵と戦い、決して寄せ付けなかった強い城だったのです。

13-1.上杉・武田の侵攻を跳ね返す

初代北条早雲が小田原城を奪った頃、さして大きくもない普通の城でした。やがて2代氏綱の代に至って本拠地とするべく改修と拡張を加え、関東の雄にふさわしい城郭として発展させました。

3代氏康の頃にはほぼ完成しますが、市街地を丸々取り込んだ「総構え」と呼ばれるもので、まさに城塞都市として如何なる大軍も寄せ付けないものだったのです。

1561年に上杉謙信が。1569年には武田信玄がそれぞれ大軍を率いて来襲しますが、その強固な防御能力で何もさせないまま撃退しています。当時としては最も堅固な城だったわけです。

13-2.豊臣の大軍の前についに屈服

豊臣氏と北条氏が手切れとなった1590年、豊臣秀吉は20万以上という空前の大軍と共に小田原城へ進軍してきました。4代氏政は、このことを予想して周囲9kmに及ぶ堅固な堀を造って待ち構えていたのです。

周辺の支城が次々に陥落していく中、小田原城の北条軍5万は次第に孤立していきました。目の前の山に「石垣山城」という大城郭を築かれ、豊臣軍は何年でも包囲してやるぞと言わんばかりの布陣でした。

もはやこれ以上の抗戦は無駄と悟った北条側はついに降伏、開城したのです。小田原城は力攻めで落とされることはありませんでしたが、最後は秀吉の物量作戦によって屈服せざるを得ませんでした。

14.【第2位】山陰の雄尼子氏が完成させた山岳要塞~月山富田城~

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山陰の戦国大名尼子氏は、一時は中国地方から畿内の一部にまたがる大帝国を築きました。その尼子氏の本拠地が月山富田城です。尼子経久が心血を注いで完成させた山岳要塞は、力攻めで決して落ちることはありませんでした。

14-1.下克上を果たした尼子経久

月山富田城のある出雲国(現在の島根県東部)は、もとは京極氏が守護を務める国でしたが、15世紀後半に尼子経久が下克上を果たして奪い取りました。

経久は月山富田城をさらに堅固にするべく大改修に取り組みました。いくつかある城への登り口を狭くし、屈曲させ、要所に陣地を築いて守りを鉄壁なものとしたのです。

また全ての登城路を一か所に集中させて造り変え、尾根筋すべてに「曲輪」という兵の駐屯地を配置して要塞化します。まさに峻険な地形を利用した山岳要塞が完成したのでした。その威容は中国地方随一と表現しても良いでしょう。

14-2.毛利軍との激突

ところが安芸国の毛利元就が次第に力を付けて戦国大名化し、大内氏の勢力を飲み込んで勢力を増してきたのです。尼子氏の方は経久の死ののち、晴久を経て義久が当主となっていましたが、すでに昔日の勢いはありませんでした。

次第に毛利氏に押し込まれる形となった尼子氏は、1566年に頼みの月山富田城へ籠城。長期にわたって包囲されます。元就の調略や策謀もあり、まったく士気が下がってしまった城内からは逃亡者が続出する有様。

これ以上の籠城は無理と悟った義久はついに開城を決意しますが、当初は1万を数えた兵力も、降伏する頃にはわずか200人にまで減っていたそうです。

15.【第1位】秀吉が造った金城鉄壁の大城郭~大坂城~

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豊臣秀吉の城といえば大坂城。「大坂の陣」など歴史の舞台で外すことができない城ですね。この大坂城を第1位に選んだのは、やはり守りが堅い城だからです。その構造をメインに見ていきましょう。

15-1.空前の広さを誇った城郭都市

大坂城は石山本願寺の跡地に築城されましたが、まず特筆すべきはその大きさです。天守や建物群もさることながら、都市を抱え込んだ外郭部分は現在の大阪市街地と匹敵するのですね。

北は淀川付近、南は天王寺辺りまで。東は森ノ宮、西は現在の船場のあたりにまで広がっていました。ちょうどJR大阪環状線をイメージすると良いかも知れません。

南を除く外郭全てに水堀が巡らされていて、敵の接近を容易に許しません。また多くの守備兵を取り込めるだけの広さがありますから、本気で攻め落とすには数十万の攻撃陣が必要となるため、現実的に非常に難しいものがありました。

15-2.真価を発揮した「大坂冬の陣」

豊臣と徳川の関係が悪化し、ついに戦いの火蓋が切られようとしていました。大坂城は鉄壁の守備力を誇りますが、唯一の弱点といえば水堀が存在しない南側でした。ここは上町台地の突端にあたり、とにかく水が引けないのです。

そこで城将の真田信繁は、その弱点をカバーするために真田丸という砦を築きます。ここに大量の鉄砲を配置して、接近する徳川軍を撃破する算段でした。

1614年、戦闘が始まると大坂城はその真価を発揮しました。予想通り真田丸は効力を発揮し、城のどの方向からも敵を寄せ付けません。結局のところ和議の条件として外郭の堀が埋められるわけですが、とにかく大坂城の強さが光った一戦だったといえるでしょう。

城には歴史のロマンがある!

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わずかな数の城兵が、敵の大軍勢をひるませ手こずらせる。そんなお城をいくつか紹介しましたが、その他にも数えきれないくらい多くの歴史を秘めたお城があります。何も豪壮な天守閣があるお城だけが「城」ではないですし、あなたが住んでいるすぐ近くにも城はあったでしょう。「城」とは「土で成る」と書くように、そこら中に存在してたもの。ぜひ、ご近所にあるお城を訪ねてみてくださいね。

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明石則実