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建武の新政を打ち立てた「後醍醐天皇」を元予備校講師がわかりやすく解説

14世紀の初め、100年以上続く鎌倉幕府を滅ぼし、天皇中心の政治を回復しようと試みた天皇がいました。後醍醐天皇です。後醍醐天皇は不満を持つ武士たちを糾合し、鎌倉幕府の討幕に成功しました。しかし、後醍醐天皇が行った建武の新政に対し武士たちを中心に不満が爆発。足利尊氏に離反され、建武の新政は数年で瓦解してしまいました。今回は後醍醐天皇と建武の新政、南北朝の争乱などについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

後醍醐天皇の即位と、鎌倉幕府打倒の動き

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鎌倉時代の末期にあたる1318年、後醍醐天皇が即位しました。後醍醐天皇の即位は幕府の仲介で定められた両統迭立に基づくものです。その後、父である後宇多法皇の院政を停止した後醍醐天皇は天皇親政の国を作るため、鎌倉幕府打倒の計画を練りました。しかし、幕府打倒計画である正中の変も元弘の変も失敗。後醍醐天皇は位を追われ、隠岐に流されてしまいます。

両統迭立と後醍醐天皇の即位

鎌倉時代末期、皇室は二つの血統に分かれていました。一つは後深草天皇の子孫である持明院統、もう一つは亀山天皇の子孫である大覚寺統です。この二つの皇統は皇位や荘園の相続をめぐって対立を深めました。

仲裁を求められた鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統が交替で皇位を継承する両統迭立の方式を提案。鎌倉幕府は持明院統にも大覚寺統にも両統迭立を守るよう求めました。

1318年、両統迭立の原則に基づき持明院統の花園天皇の跡を継ぐ形で大覚寺統の後醍醐天皇が即位します。

このころ、大覚寺統は後醍醐天皇と兄の後二条天皇の間で大覚寺統の後継者をめぐる争いが発生。鎌倉幕府は両者の父である後宇多法皇の意をくんで後二条天皇の子を大覚寺統の後継者と認めていました。これに後醍醐天皇は強く反発。鎌倉幕府の打倒を考え始めます

正中の変

1321年、後醍醐天皇は後宇多法皇の院政を停止し自ら政治をおこなう親政を開始しました。後醍醐天皇は摂関政治を脱し天皇親政を進めた後三条天皇にならい、記録荘園券契所(記録所)を復活させ、親政への意欲を見せます。

後醍醐天皇は側近の日野資朝日野俊基らと討幕の計画を練りました。1324年、後醍醐天皇は無礼講と称する会合を開催し、同志たちと鎌倉幕府打倒のはかりごとをします。

計画では、9月23日の北野祭で六波羅探題を殺害し、延暦寺や興福寺を味方につけ畿内を制圧するというものでした。

しかし、この計画は六波羅探題の知るところとなり、謀議に参加した人々は幕府に捕らえられました。その結果、首謀者格として日野資朝が佐渡遠島となります。後醍醐天皇自身は幕府の追及を逃れました。

元弘の変

正中の変の失敗後、後醍醐天皇は巻き返し図るべく活動を継続していました。畿内でまとまった武力である僧兵を有する延暦寺や興福寺への働き掛けを続ける一方、幕府に対して不満を持つ勢力の糾合を図ります。

1331年、後醍醐天皇の動きが密告によって六波羅探題に知られてしまいました。この時、後醍醐天皇は京都を脱出し笠置山で挙兵します。後醍醐天皇の挙兵に呼応して河内国の悪党楠木正成も赤坂城で挙兵しました。鎌倉幕府は笠置山に大軍を派遣して攻め落とします。後醍醐天皇は鎌倉幕府に捕らえられました。

幕府は後醍醐天皇にかわって持明院統の光厳天皇を即位させます。さらに、討幕の中心人物となった日野資朝、日野俊基らを斬罪に処し、退位させた後醍醐天皇は隠岐の島に流しました。楠木正成は赤坂城に火を放ち、行方をくらまします。

建武の新政の始まりと崩壊

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known – The japanese Book “Miru Yomu Wakaru Nihon No Rekishi 2 Chusei”, 1993, Asahi Shinbun-sha, パブリック・ドメイン, リンクによる

隠岐に流されても、後醍醐天皇の討幕の意思は変わりませんでした。元弘の変後も鎌倉幕府に対する反発が各地でくすぶっている様子を見た後醍醐天皇は隠岐を脱出。再び鎌倉幕府に戦いを挑み、滅ぼすことに成功しました。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は建武の新政を始めます。しかし、二条河原の落書に見られるように、後醍醐天皇の政治は当時の実情、特に武士の利益を損なうものだったため、武士たちは足利尊氏を中心に結束。後醍醐天皇の建武の新政を倒します。

鎌倉幕府の滅亡

隠岐に流された後醍醐天皇は、鎌倉幕府の動向を注意深く見守っていました。1333年、伯耆の武士名和長年の協力を得た後醍醐天皇は隠岐を脱出。伯耆船上山で再び挙兵します。すると、死んだと思われていた楠木正成が再び挙兵。元弘の変以前の状況に戻ってしまいました。

鎌倉幕府のトップである得宗の北条高時は有力御家人の足利高氏に後醍醐天皇の攻撃と畿内の制圧を命じます。ところが、後醍醐天皇を討伐するはずの足利高氏軍は、あろうことか六波羅探題を攻撃、これを滅ぼしてしまいました。

同じころ、関東では新田義貞が兵を挙げ鎌倉へと攻め込みます。軍を西に送り出し、手薄になっていた鎌倉幕府の中枢部は新田義貞によって制圧されました。得宗北条高時以下、北条一族は東勝寺で自刃。ここに、鎌倉幕府は滅亡します。

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