- 豊臣秀吉の隠居所として建てられた伏見城
- 関白秀次への警戒心の表れか?大規模化する伏見城
- 豊臣秀次事件と慶長伏見大地震
- 戦火に包まれた二代目伏見城
- 驚くべきスピードで完成した木幡伏見城
- わずか一年余りしか在城しなかった秀吉
- 政治の主導権争いの中、焼け落ちた伏見城
- 徳川氏によって三代目伏見城が再建される
- 関ヶ原合戦後の政情を落ち着かせるために再建
- 伏見城、ついに廃城となる
- 現在も見学できる!伏見城から移築された遺構の数々
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- 伏見は楽しめるスポットがいっぱい!
この記事の目次
豊臣秀吉の隠居所として建てられた伏見城
平安の昔から、貴族の別荘地として知られていた景勝の地、伏見。ここに城が建てられた理由は、秀吉の隠居所を造るためでした。大坂城にも引けを取らない大城郭となったのには理由があったのです。
関白秀次への警戒心の表れか?大規模化する伏見城
関東小田原の後北条氏を滅ぼして、ほぼ日本をその支配下に置いた秀吉は、1591年に関白の地位を甥の豊臣秀次に譲り、京都の南にある伏見指月(ふしみしづき)に隠居屋敷を造ろうとしました。日本を完全に支配下に置いた後、国内の政治を秀次に任せ、自分は大明国(中国大陸)へ攻め込もうと考えていたのですね。
ところがそんな中、子供を半ばあきらめていた秀吉にとって朗報が舞い込んだのでした。待望の嫡子お拾(おひろい。のちの秀頼)が大坂城で誕生したのです。お拾は大坂城、秀次は京都の聚楽第、そして自分は伏見城と、奇妙な三角関係が出来上がったわけですが、なぜか秀吉は築城工事半ばの伏見城を、当初の計画とは全く違う豪壮な堅城に仕上げようとしました。
来たるべき明国の使節に見せつけるためだったのか?子供が生まれたことによる秀次への警戒感だったのかはわかりませんが、屋敷としてこじんまりと造るはずだった伏見城は、大坂城にも匹敵する大城郭へと変貌を遂げたのです。
また、城の規模を拡張すると同時に宇治川の水を引き入れて堀とし、港を造って流通の拠点としました。伏見が酒どころと知られるようになるのはこの頃からで、当時の史料「多聞院日記」などには伏見酒や伏見樽などの名称が見られます。
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豊臣秀次事件と慶長伏見大地震
By 不明 – Toyotomi Hidetsugu large.jpg 瑞雲寺所蔵, パブリック・ドメイン, Link
伏見城がまだ築城中の1595年、豊臣秀次事件が起こりました。甥の秀次が謀反の疑いを掛けられ、高野山で自害したという豊臣政権を揺るがす大事件ですね。この秀次事件の真相は、秀吉が我が子秀頼可愛さのあまり、秀次を抹殺しようとしたのか?それとも秀次が自発的に切腹したのか?諸説あって定かではありません。筆者はいずれ、この真相にも迫ってみたいと思います。
秀次の死後、京都の聚楽第は破却され、その廃材はそのまま伏見へ運ばれて築城のための材となりました。やがて伏見城は豪壮な城として完成しますが、それもつかの間のこと。稀に見る天変地異が伏見城を襲ったのです。
1596年7月12日の深夜、突如としてマグニチュード7強の大地震が伏見を震源として起こりました。この慶長伏見大地震は、伏見城だけでなく東寺や天龍寺、大覚寺などの建築物も多く倒壊し、畿内の多くの地域が被害に遭いました。当時の人々の記録にも、その恐ろしい惨状が記録されていますね。
「都の大地しん(大地震)ハ京ふしみの間、御屋形はかりにゆりくつし」
引用元 島津家文書より
「当市に 於て恐ろしき大地震あり、約三時間が程絶え間なく続けり」
引用元 ルイスフロイス書簡より
「閏七月十二日夜半時分大地震にて、御城の天守をゆり崩し、御殿共破。普請衆数多相果申候。地震程をそろしき事は無之候由、御諚にて惣別の御殿共、柱二本は石をすへ、三本目は土五尺掘入、上の道具もかすがひにてしめ、兼ての御作事より相替候事は、地震の御用心にて候」
「7月12日の夜半に興った大地震によって伏見城の天守閣が崩れ、御殿も共に倒壊してしまった。工事に携わっていた者も多くが亡くなってしまった。まったく地震ほど恐ろしいものはないが、今後、建物の倒壊を防ぐためには柱二本は礎石に据えておき、三本目は五尺(約2メートル)ほど地中に埋め、柱を繋ぐために鎹(かすがい)で絞めてくこと。建築工事は地震を想定して行わなければならない。」
引用元 伊達家重臣伊達成実の手紙より
伏見城中でも多くの者が亡くなり、秀吉自身も危ないところでした。謹慎中だった加藤清正も手勢を率いて駆けつけたそうです。結局、まだ築城中だった城は破却せざるを得なくなりました。
発掘された幻の伏見城
秀吉によって築かれた指月伏見城ですが、地震で倒壊して以降、文献や史料が少ないこともあって存在を疑う説もあり、長い間「幻の城」とされてきました。
しかし2015年、指月伏見城の推定地に建つ新築マンションの造成地で、石垣をはじめとする城の遺構が見つかったのです。同時に豊臣家の家紋や、天皇家の菊の文様が入った瓦なども見つかっており、そこが指月伏見城であることを裏付けることが証明されました。
戦火に包まれた二代目伏見城
初代の指月伏見城が倒壊した後、再び伏見城が建設されることになりますが、この二代目伏見城はまさに数奇な運命をたどることになるのです。秀吉の死を見届け、最後は戦火に包まれた伏見城の謎に迫ります。