日本の歴史昭和

関東軍が満州支配のために実行した「張作霖爆殺事件」とは?元予備校講師が分かりやすく解説

1928年6月4日、新聞紙面に「張氏の列車爆破さる」と題された新聞記事が掲載されました。記事中の「張氏」とは、当時、中国東北部である満州を支配していた軍閥の張作霖のこと。北京から満州の奉天に引き上げてきた張作霖が乗車していた列車ごと爆殺されたのです。日本政府は「満州某重大事件」とよばれた事件は、日本陸軍の一部である関東軍の仕業でした。今回は、張作霖爆殺事件の背景、経過、事件後の動きなどについて元予備校講師がわかりやすく解説します。

張作霖爆殺事件の背景

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日露戦争に勝利した日本は、ポーツマス条約を締結。ロシアから南満州鉄道の権利を譲られました。日本は南満州鉄道や遼東半島南端の関東州を警備するため関東軍を設置します。同じころ、中華民国では、軍事力で地域を支配する軍閥が各地に割拠していました。日本は混迷する中国の状況を利用し、中国東北部にある満州への進出を図ります。

日露戦争の勝利

1904年、日本とロシアは戦争状態に入りました。日露戦争の始まりです。明治維新から半世紀もたっていない新興国の日本が列強の一員であるロシアに挑んだ日露戦争は、世界各国からロシア有利とみられました。

しかし、戦争がはじまると日本は思いのほか善戦し、遼陽会戦や旅順攻略戦などでロシアに勝利。奉天会戦でも勝利して戦術的には日本軍有利に戦争が進みました。さらに、1905年の日本海海戦の勝利で日本の優位が確定します。

そのころ、ロシア国内では血の日曜日事件がきっかけとなるロシア第一革命が起きていました。革命騒ぎでロシアが動揺する中、奉天会戦や日本海海戦の敗北が重なり、ロシアは戦争継続への意欲を大きく低下させます。

1905年、日本とロシアは戦争終結に同意。ポーツマス条約が結ばれました。この条約で日本は朝鮮半島の保護権遼東半島南部の租借権南満州鉄道の権利などを認められます。

ポーツマス条約後に設置された関東軍

ポーツマス条約で日本が租借を認められた遼東半島南部は、旅順大連などの重要都市を含みます。日本は、この地域を関東州と名付けました。万里の長城の一角である山海関の東側の州という意味ですね。1906年、日本は関東州を治めるため関東都督府を設置します。

1915年、関東州の租借権が99年間延長されました。関東都督府は政治を担当する関東庁と軍事を担当する関東軍に分離されます。関東軍の主な任務は関東州と南満州鉄道の警備でした。

ポーツマス条約で獲得した南満州鉄道は、日本では「満鉄」とよばれます。満鉄は鉄道だけではなく、周辺地域の鉱山開発もいっしょに行いました。日本にとって、満鉄は大陸に進出するための重要な会社となります。

辛亥革命と軍閥

1895年に日清戦争に敗北してから、清国は急速に弱体化しました。それをみた欧米列強はこぞって中国大陸に進出。中国各地を租借し、各国の拠点を中国に作っていきます。

清国内部でも、中国人たちが清王朝の政治に強い不満を抱くようになりました。1911年、孫文を中心とする反清勢力が各地で武力蜂起。清国からの独立を宣言しました。孫文は中華民国臨時大総統となり、清国の首都北京を目指しました。

北京を守っていた袁世凱は清朝もこれまでと考え孫文と妥協。袁世凱の大総統就任と引き換えに、清朝最後の皇帝である溥儀を退位させました。清朝が滅んだこの革命を辛亥革命といいます。

辛亥革命後、袁世凱は自ら皇帝になろうとして失敗。袁世凱が死んだあとは、軍事力を背景にした軍閥が中国各地を支配します。張作霖も軍閥の一人で、満州を支配する奉天軍閥の長でした。

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