日本の歴史江戸時代

日光東照宮とは?徳川家康を祀る神社の歴史と見どころをわかりやすく解説

日本を代表する世界遺産と聞かれたら……「日光東照宮」の名前を挙げる方も多いのではないでしょうか。日本のユネスコ世界遺産としては8番目、1999年に登録された日光東照宮。日本人のみならず外国人にも人気の観光スポットとなっています。そんな日光東照宮、いったいどんな神社なのでしょう?いつ頃からある?有名なのに、歴史や由来など詳しいことはあまり知らない……。もしかしたら外国人観光客のほうが詳しいかも?なんてことにならないよう、今回の記事では、日光東照宮の歴史や見どころなどについて、詳しく解説いたします。

なぜ日光に?日光東照宮が創建されるまでの歴史とは

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日光東照宮とは栃木県日光市にある神社。主祭神として祀られているのは、江戸幕府を築いた将軍・徳川家康です。なぜ徳川家康を日光に?どうして日本屈指の観光スポットになったのか?神社に家康のお墓があるの?等々、いろいろ疑問がわいてきますね。まずは日光東照宮創建までの歴史について見ていきましょう。

日光とは?奈良時代から続く山岳信仰の霊場

日光は栃木県の北西部に位置しています。

周囲には男体山や女峰山など日光連山と呼ばれる山々が連なり、日光は奈良時代から山岳信仰の聖地として知られていました。

766年、奈良時代の僧侶・勝道(しょうどう)上人が日光を開山し、現在も日光東照宮に隣接する輪王寺を創建。鎌倉時代には源頼朝からも厚く信仰されており、以後、日光は関東地方の修験場・霊場として多くの人々から尊崇されていきます。

「日光」の名前の由来は、男体山の古い呼び名と言われている「二荒山(ふたあらやま・ふたらさん)」を「にこう」と呼んだところからきているのだそうです。

日光東照宮が建てられる前の日光は、険しい山々に入り修行を行う霊場として多くの僧坊が集まり、賑わいを見せていました。

しかし、豊臣秀吉による小田原征伐の後、北条氏に味方した等の理由で、一時期、日光は世間から忘れ去られた存在になってしまいます。

二代将軍秀忠・徳川家康を祀る社殿を建立

1616年(元和2年)、徳川家康死去。

亡くなる前、家康は自分の埋葬について「駿河の久能山に葬り、増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納めて、1年経ったら日光山に小堂を建てて勧請(かんじょう・神仏の来臨を請うこと)するように」と言い残しています。

その言葉に従い、家康の死後、遺体はすぐに駿河国の久能山(くのうざん)に埋葬されました。

この地には飛鳥時代創建と伝わる久能寺があり、小高い山の上には武田信玄が築いたとされる山城も残されていました。武田滅亡の後は徳川家康が治めることとなり、以後、久能山は駿府の防衛拠点のひとつとして重要視されてきた、家康に縁のある土地なのです。

家康を埋葬するにあたり、まず1616年に久能山東照宮の建設が始まります。主祭神はもちろん、徳川家康です。

せっかく築いた久能山東照宮ですが、創建まもなく、家康の遺言どおり、家康の一周忌にあわせて日光へ改装されることになります。

二代将軍であり家康の息子にあたる徳川秀忠の命により建立された当時の日光東照宮の社殿は簡素でシンプル。まだ現在のような豪華なものではなかったのだそうです。

三代将軍家光による大改築・荘厳な社殿へ

1632年(寛永9年)、二代将軍徳川秀忠がこの世を去ると、徳川家光が三代将軍となります。家康の孫にあたる人です。

家光は戦国時代の動乱を知らずに生まれ育った将軍。祖父・家康を尊敬し、神のように崇めていたと伝わっています。

そこで家光は、家康の二十一回忌の法要を前に日光を訪れ、日光東照宮の大改修を行うことを決めたのです。

寛永の大造替によって、日光東照宮は豪華で荘厳な社殿へと生まれ変わりました。日本全国から宮大工たちが集められ、改修は2年足らずという短期間の間に急ピッチで行われたと伝わっています。

この大改修は、家康信仰だけでなく、徳川幕府の威光を示すものにもなりました。以後200年余りの間、徳川幕府は繁栄し続けたのです。

ところで、「東照宮」と名の付く神社は、日光や久能山だけでなく、全国各地に数多く存在しています。東照宮とは徳川家康を祀る神社のこと。日光東照宮はその総本宮であり、正式には単に「東照宮」という名前なのですが、他の東照宮と区別つけやすいように「日光東照宮」と呼ばれているのです。

なぜ日光に?徳川幕府安泰を願う家康の思い

三河国は家康の祖・松平家ゆかりの国。駿河は幼少期を過ごした地でもありますが、ではなぜ日光に?理由はいくつかあるようですが、やはり源頼朝の存在が大きかったようです。

頼朝が寄進し珍重していた日光権現。頼朝を尊敬していた家康が、衰退してしまった日光を再建したいと考えていたとしても不思議はありません。

家康が日光を選んだ理由としてもうひとつ、日光という土地の位置が大きく関係しているという説をご存じでしょうか。

日光は江戸城から見て、ほぼ真北に位置しています。これが北極星信仰に通じるのでは、と考えられているのです。

北極星とは、地球の地軸の延長線上にあるため、地上から天体を眺めた時、他の星が北極星を中心に回っているように見えます。北極星の位置は変わらないため、この星は古くから信仰の対象となっていたのです。家康はこのことを意識して、日光の地を選んだのでは、といわれています。

遺言で「関八州(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野の関東8か国の総称)の鎮守となろう」と続けた徳川家康。日光と不動の北辰・北極星を重ね合わせ、自ら守護となることを望んだ徳川家康。関東および江戸の町の安泰が続くことを願ったのかもしれません。

日本を代表する世界遺産・日光東照宮の見どころとは

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江戸幕府を開き日本に泰平の世をもたらした英雄・徳川家康。その存在は、孫の徳川家光に尊敬されるだけでなく、全国に「東照宮」という名の付く神社が建立されるほど尊崇されてきました。大改修を終えて荘厳な神社へと生まれ変わった日光東照宮とはどんな場所なのでしょうか。次に、日本屈指のパワースポットとしても人気の高い日光東照宮の見どころについてご紹介いたします。

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