日本の歴史鎌倉時代

5分でわかる「運慶・快慶」金剛力士立像を作り上げた鎌倉時代のカリスマ仏師をわかりやすく解説

奈良の大仏で知られる東大寺。もちろん大仏様は有名ですが、東大寺の中には他にもたくさんの国宝や重要文化財が点在していることをご存じでしょうか。そのうちのひとつが、南口にある大きな門・南大門。ここに巨大な木造の金剛力士像があります。大仏とともに奈良のスターとして多くの観光客を魅了する金剛力士像。作者は鎌倉時代に活躍した仏師・運慶と快慶であるといわれています。高名でありながら謎の多い二人の仏師。今回の記事では、運慶と快慶について詳しく解説いたします。

運慶・快慶とは?生い立ちや活動拠点について

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運慶・快慶の名は、現代の社会科の教科書に載るほど有名ですが、どういう人物なのか詳しいことはよくわかっていません。ただ、残されている作品の数が大変多いことから、仏師として高名で人気があったのだろう、と推測できます。人物像を知る資料は少ないですが、携わった仕事や作品などをもとに、運慶・快慶の素顔に迫ってみましょう。

謎多き仏師・運慶・快慶~実は兄弟ではない?

運慶・快慶は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した仏師(ぶっし)です。

仏師とは、仏像を専門に彫る彫刻家のこと。飛鳥時代、仏教伝来とともに仏像を作る技術も伝わり、奈良時代には役所の中に仏像を作る部署のようなものが設けられて盛んに仏像が作られるようになります。

仏師は日本の歴史上、非常に重要な職業だったわけですが、芸術家と違いあくまでも裏方。仏像に「〇〇作」などと名前が入るわけでもないため、仏師の名前が一般に知られることはほとんどありませんでした。

そんな時代だったため、運慶・快慶とも、出生場所や生誕日など詳細は不明。平安時代の終わり頃には仏師となっており、主に奈良の寺院を中心に活動していたようです。

運慶・快慶と名前が似ているところから、親子か兄弟では?と思われがちですが、この二人に血縁であったかどうかについても、記録は残されていません。おそらく、血縁関係はなかったであろう、という説が有力です。

「慶」とは仏師一門の流派の名前?

運慶・快慶の名前に含まれる「慶」という字は、「慶派(けいは)」という、平安時代末期から続く仏師の一派を表す文字であるといわれています。

他にも「円」という字がつく「円派」や、「院」の字がつく「院派」といった一門が存在し、多くの仏師を世に排出。落語家や歌舞伎役者のように、どの一門かわかるような名前を名乗っていたようです。

そのため、運慶・快慶のほかにも、「慶」の字がつく仏師は何人かいます。運慶の父親であるといわれている仏師・康慶(こうけい)は、慶派の礎を築いたとされる人物です。

仏像の製作は、慶派一門でチームを組んで行うこともありました。現存する「運慶作・快慶作」と言われる作品の中には、慶派で取り組んだものではないか、と推察されるものも多いようです。

力強い作風の運慶・繊細な優美さが特徴の快慶

仏像とは仏の像のこと。仏が修行をして悟りを開く様子を形に表したもので、仏の教えのありがたさを人々に伝える重要な役割も担っています。

仏教伝来以来、日本でもたくさんの仏像が作られました。その姿かたちや表情には、時代・年代によって違いがみられます。仏像にも流行があったようです。

残されている作品に見られる運慶の作風は、力強く男性的であるといわれています。

険しい表情、鋭い目つき、がっしりとした体格、躍動感あふれるポーズ。見た人が「すごい!かっこいい!」と思わせる仏像をたくさん生み出しました。仏が身に着けている装飾や服装も特徴的で、仏師の個性が感じられる作品が多いです。

このころは貴族に変わって武士が力をつけていた時代。運慶たちも、武家から依頼を受けて仏像を作ることが多かったのかもしれません。

一方の快慶はというと、どちらかというと柔和で穏やか、優美で繊細な作品が多いのが特徴。美しくて優しい顔立ちの仏像は、一般庶民にも受け入れられやすいせいか、快慶の作品は小さな寺でも数多く見つかっています。

運慶・鎌倉幕府関係の仕事のため鎌倉に滞在

運慶・快慶がいつ頃どこでどのような仕事をしていたのか、残念ながら詳しい史料は残されていません。

しかし、運慶は1186年頃、開かれたばかりの鎌倉幕府の仕事をするべく、一時期、鎌倉に滞在しています。

そのため、鎌倉の浄楽寺や、北条氏のお膝元・静岡県の伊豆の国市にある願成就院などに、運慶作の仏像が残されているのです。

このとき快慶も鎌倉に来ていたかどうかは、定かではありません。快慶作の仏像は鎌倉では見つかっていないようで、鎌倉幕府に近づいたのは運慶の単独行動だった可能性が高そうです。

しかし、1194年頃には、焼失した東大寺の復興作業に加わった形跡が残されており、その後は東大寺や興福寺を中心に活動。有名な東大寺南大門金剛力士は、1203年(建仁3年)頃の作品と言われています。

運慶・快慶が手掛けた作品は木造の仏像。木造建築の寺院の中に安置されることが多く、火災や災害で消失してしまったものもたくさんあると推測されます。

それでも、残された作品の数に着目してみると、運慶より快慶のほうがはるかに多い。運慶の作品が大きな寺院に残されているのに対し、快慶は地方の小さな寺などにも多くみられます。同じ慶派でも、仕事の受け方・客層が異なっていたのかもしれません。

どこにある?運慶・快慶が残したとされる作品とは?

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運慶・快慶の作品は、現在でも多くの寺院で鑑賞することができます。もちろん、国宝や重要文化財がずらり。鎌倉時代の人々のみならず現代人の心もつかむ人気仏師、運慶・快慶の作品とは?今回は数ある中から、とくに有名なものをピックアップしてご紹介いたします。

国宝・金剛力士像(奈良・東大寺南大門)

金剛力士とは仏教の守護神のこと。「仁王」とも呼ばれる神様です。

仏法が守られているか、仏の教えが正しく伝わっているか、厳しい表情で世の中を見渡しています。

日本全国の寺院に金剛力士像はたくさん安置されていますが、その中でも東大寺南大門の金剛力士像がもっとも有名、と言ってよいでしょう。

東大寺南大門は、ご存じ奈良の大仏様が安置されている東大寺の南側にある正門。高さ25メートルにもなる巨大な山門で、門自体が国宝に指定されています。

この門の左右に1体ずつ控えているのが、1203年に制作されたとされる金剛力士像です。

木造、高さ8.4メートルの巨大像。重さは6トン以上にもなるそうで、恐ろしい顔をした仏像が左右からこちらを見下ろしています。

向かって左側が、口を開けた「阿形像」、右が口を閉じた「吽形像」です。阿吽とは、物事の始まりと終わりを表す言葉。一般には「運慶・快慶作」と書かれることが多いですが、慶派チームで挑んだ復興作業だったと考えられています。

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