幕末日本の歴史江戸時代

5分でわかる「八月十八日の政変」池田屋事件・禁門の変との関連もわかりやすく解説

何が起きた?「八月十八日の政変」の経緯とその後

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激動の幕末期、立場や首長も刻一刻と変わっていきますが、「八月十八日の政変」直前は、「尊王攘夷のためなら武力行使もいとわない長州藩」と「長州藩のような輩から天皇や京都を守りたい薩摩藩と会津藩」という関係だったことがわかります。では「八月十八日の政変」とはどのように起きて、どうなっていったのでしょうか。

過激な長州藩~朝廷を巻き込んで幕府と対峙

「八月十八日の政変」の前の年の1862年(文久2年)、島津斉彬の弟で薩摩藩の藩主となった島津久光を中心に、朝廷と連携して幕府を立て直そうとする公武合体派が「文久の改革」と呼ばれる改革を行います。

しかしこの改革により、長州藩をはじめとする尊王攘夷派との関係がますます悪化。京都では浪人たちによって「天誅」と呼ばれる殺戮行為(日本のためにならない連中を天皇に代わって成敗すること)が横行します。

尊王攘夷や公武合体の対立は、朝廷内でも起きていました。薩摩藩に近い存在で公武合体派だった岩倉具視は、長州藩に近い立場で尊王攘夷を掲げる三条実美や姉小路公知の罠にはまり、政治の世界から追われてしまいます。

京都でどんどん力をつけ、クーデターとも取れる過激な行動に出る長州藩。薩摩藩、会津藩はどう出る?もう待ったなしです。このまま放っておいたら、長州藩がのさばり、京都は焦土と化してしまうかもしれません。

目には目を、歯には歯を、クーデターにはクーデターを。こうして起きたのが「八月十八日の政変」なのです。

文久3年8月18日・会津・薩摩が長州を締め出し

「八月十八日の政変」の数か月前、長州藩は下関戦争を引き起こしますが、強硬な姿勢を貫きながら「やっぱり異国船は強い、このままの武力じゃ勝てない」ということをようやく悟ります。

しかし孝明天皇は過激な長州をよく思っていませんし、周囲の藩も過激なことばかりする長州と関わろうとしません。

一生懸命頑張ってきたのに、すっかり孤立してしまった長州藩。それでも暴走は止まらず、三条実美らの根回しにより「大和行幸の詔」が発布されることになります(攘夷祈願のため、天皇が神武天皇の墓などに参拝しにいく計画を立てたことを発表した)。

もちろん、天皇は乗り気ではありません。この行幸は何としても阻止しなければならない。その時、薩摩と会津は動きました。

文久3年8月18日(1863年9月30日)早朝、会津藩、薩摩藩の藩兵が中心となって速やかに御所の門を封鎖します。

夜が明けて間もなく、各藩の藩主が参内。厳重な警備の中、大和行幸の延期と、三条実美ら数名の公家の処遇などについて話し合いが行われます。

そのころ、自分たちが締め出されたことを知った三条実美や長州藩の藩士たちは慌てて御所に駆け付け、堺町門へと集結。門を守っていた会津・薩摩藩の兵とにらみ合いになります。さすがの長州藩も御所に矢を放つわけにもいかず、夕方には退去。こうして「八月十八日の政変」は成し遂げられました。

長州寄りの公家たちも都から追放……七卿落ち

「八月十八日の政変」によって、大和行幸は延期され、三条実美ら急進的な公家たち15人に対し禁足(外出禁止)・他人との面会禁止などの命令が下ります。

長州藩にも、京都からの退去命令が下りました。

昨日までいい感じだったのに、一夜にして状況は一変。会津藩・薩摩藩にしてやられた長州藩。でも、もうどうすることもできません。

悔しいですが、ここはいったん国もとに帰り、体制を立て直す必要があります。京都に入り込んでいた1000人ほどの長州勢は失意のまま長州へ帰っていったのでした。

この時、禁足を命じられていた15人の公家のうち、三条実美をはじめとする7人が、命令に背いて長州勢と一緒に長州へ向かいます。外出禁止と言われているのに……いずれにしても追放されたようなもの。だったらいっそのこと、長州に落ち延びて復活の機会を狙おうと思ったのかもしれません。

「八月十八日の政変」で失脚させられた公家のうち、7人が長州藩へと落ち延びたことを七卿落ち(しちきょうおち)と呼んでいます。

「八月十八日の政変」に関連する出来事とは?

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「八月十八日の政変」の政変の後、世の中はさらに、めまぐるしく変わっていきます。「八月十八日の政変」が起きたのが1863年、大政奉還が1867年、元号が明治に変わったのが1868年と、数年のうちに大きな変化を遂げることとなる日本。政変は世の中にどのような影響を与えたのでしょうか。「八月十八日の政変」に関連する事件について見ていきましょう。

尊王攘夷派が大和国へなだれ込み「天誅組の変」

「八月十八日の政変」より少し前から、各地で尊王攘夷運動とみられる出来事がたびたび起きていました。

そのひとつが「天誅組の変(てんちゅうぐみのへん)」です。中心となったのは、尊王攘夷を掲げる志士のひとり、土佐藩の脱藩浪士・吉村虎太郎でした。

きっかけとなったのが、三条実美ら急進派が画策した大和行幸の詔です。行幸とは天皇のお出かけのこと。この行幸は、尊王攘夷派たちの悲願でもありました。

これで異国を追い払い、幕府を追い詰めることができる!尊王攘夷派たちは興奮を抑えきれず、天皇の目的地である大和国(奈良県)に向かいます。

そして「八月十八日の政変」より1日前の8月17日、大和国に到着した尊王攘夷派たちは代官所を襲撃。挙兵します。

しかし大和行幸は延期になり、彼らは単なる暴徒として追われることとなるのです。

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