禁門の変
こうして京都を追放された長州藩。普通ならここで諦めるものなんですが、一部の過激な武士たちは京都にそのまま潜伏していき、公武合体派の武士たちを天誅と称して暗殺したり、孝明天皇の誘拐計画などをたてたりするなど今一度長州藩に輝きを取り戻すための策を企てていました。
そんな過激な人たちを取り締まるのがいわゆる新撰組であり、1864年には長州藩の尊王攘夷派は孝明天皇の誘拐計画をまとめ上げるために宿泊していた池田屋を襲う池田屋事件も起こったりしています。
池田屋事件を知って怒った長州藩は京都に再び攻めあがることに。朝廷に京都追放の処分に対する無実を訴えるために京都へと向かいました。これに対して朝廷は退去を命じるものの長州藩は一歩も退かず、ついに長州藩と京都守護職であった会津藩との間で戦闘が起こったのです。これが禁門の変の始まりでした。
この戦いは会津藩とさらに薩摩藩が加勢していくようになり追い込まれた長州藩は敗北。さらには思いもよらず京都御所を砲撃してしまい孝明天皇は大激怒。朝廷を攻撃した理由から長州藩は天皇の敵すなわち朝敵とみなされてしまったのです。
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第一次長州征伐
1864年についに朝敵となった長州藩に対して孝明天皇は長州伐令の公布を命令。これを受けて幕府は各藩に長州藩の討伐を指示したこの時が長州征伐の始まりとなりました。幕府は1858年の日米修好通商条約の締結によって信頼を失っており、さらには倒幕に傾きかねない尊王攘夷の思想は幕府にとって邪魔な存在だったのです。外国からも攻撃され、朝廷からも逆賊としてみられている今であればあっさり潰すことができると踏んだ幕府はこの討伐の命令に従うことで信頼を取り戻せると考えたのでしょう。
幕府は御三家の一つである尾張藩の元藩主であった徳川義勝をリーダーとして各藩に長州藩攻めを行うように命令を下します。この時幕府側の参謀へと指名したのが薩摩藩の西郷隆盛でした。しかし、運が良かったのがこの当時西郷隆盛が公武合体は不可能だとすでに思っており長州藩にはある程度の同情を持っていたのです。
西郷隆盛は長州藩は思想は過激ながらも天皇を中心とした政治を行う尊王攘夷を思想としており、これを使って新政権の樹立すれば外国にも負けない国が出来上がると考え始めており、ここで西郷隆盛は考えを改めてすぐに長州征伐を行うことなく、長州藩との交渉の機会を設けたのでした。
そして征伐が行われる前に西郷隆盛は長州藩に対してある程度の条件をクリアしたら征伐は行わないと約束します。長州藩は西郷隆盛の提案を受け入れて滅亡の危機から逃れることができました。
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逆クーデターと再び起こる長州征伐
こうして征伐を免れることとなった長州藩。長州藩ではここから恭順派と呼ばれる人たちが勢力を握ることとなっていき、尊王攘夷派を排除していこうと考えていくようになりました。しかし、恭順派は幕府に頭を下げることであり、関ヶ原から続いている徳川に対する感情に反する行為です。こんな幕府にペコペコする状況を変えたい人がいました。その人こそ高杉晋作です。
高杉晋作はゴリゴリの尊王攘夷派。なんとかして長州藩がこんな状態からこれまで通りの尊王攘夷の拠点になるのかどうかを考えていくようになり、ついに高杉晋作は幕府にペコペコする長州藩の家老を倒すため伊藤博文らと共に奇兵隊を結成します。奇兵隊を組織した高杉晋作は功山寺にて挙兵。そして圧倒的な勢力で恭順派の家老たちを排除していき、そして以前のように尊王攘夷派が中心に立つ武闘派の長州藩の姿が今ここに蘇ったのです。長州藩は尊王寺のに逆戻りしたことで再び幕府に睨まれる存在となってしまいます。
しかし、長州藩はその幕府の意見を全く無視するように。さらには幕府の命令にも度々無視したことで堪忍袋のおが切れた幕府軍は再び全国の藩を動員して長州藩を攻めようと計画し始めます。これがいわゆる第二次長州征伐の始まりです。第一次では戦争は起きなかったものの、二度目はありません。長州藩は総勢15万人の幕府の軍勢に相手しなければならなくなってしまいます。
それに対して長州藩の軍勢は集めてもたったの7千人。長州藩にとっては圧倒的に不利でしたが、長州藩は諦めず徹底抗戦を決め込みました。こうして第二次長州征伐の幕が切って落とされたのです。
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