宥和政策って何?
宥和政策とはなにかしらの戦争に対する恐れによって作らていくようになった外交スタイルの一つで国の主張に対してある程度尊重する事によって問題の解決を図ろうとすることを指します。
この考え方は第一次世界大戦後のイギリスやフランスなどが行なっていくようになり、戦争を何度か回避する風潮が見られていくようになりましたが、そのおかげでヒトラーの増長を防ぐことができず、最終的には第二次世界大戦を招いてしまったという声もありました。
宥和政策の形成
まずは宥和政策がどのようにして発展していったのかについてみていきましょう。イギリスやフランスなどは第一次世界大戦からの傷痕から立ち上がることができず、それが原因で基本的にはドイツの横暴を許してしまうことになるのでした。
ドイツとのかかわりあい
イギリスやフランスが宥和政策を行うことになった一つの理由としてイギリスとフランスがドイツに対して行ったことの後ろめたさがあると私は思います。
イギリスやフランスなどは第一次世界大戦で勝利したことによってドイツに対して賠償金を貸していくようになりました。しかし、そうなったことでドイツの経済は破綻。さらにはドイツではハイパーインフレーションが起こっていくようになります。
その結果ヒトラーの出現を招いてしまうことになるのですが、やはりどこかでイギリスやフランスなどはドイツに対して後ろめたさがあり、その結果宥和政策をとってしまったという点はあるのです。
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ラインラント進駐
1930年代になるとフランスは首相がころころ変わるなどの混乱もあってか外交戦略が迷走を始めました。1933年にヒトラー政権が誕生してどのようにしてドイツの影響から防ぐのかを考えていくのですが、フランスは1935年にイタリアとソ連と条約を結び1936年にはマジノ要塞を建造します。
フランスはできるだけ守りの姿勢を固めておりどうすればヒトラーを刺激することなく戦争を回避できるのかに執拗に拘った結果が第二次世界大戦最大の要塞であったマジノ要塞でした。しかし、戦争には戦わなければ話になりません。当時のイギリス大使は当時のフランス外交を「フランスは極端に慎重な政策に引き篭るようになった。同国は軍事的冒険のにおいのする武力を伴った手段のすべてに反対している」としていてフランスは決して戦わないことを報告しています。
フランスからしたら戦争の傷がまだいえておらず、経済不況と内政の混乱が続く状況でどうしても戦争を回避したいと考えますが、ここでヒトラーが仕掛けました。ヒトラー率いるナチスドイツは1936年に非武装地帯となっていたラインラントに進駐。ヴェルサイユ条約で定められたラインラント非武装条項を破ります。
ヒトラーがついに動き始めたこの時フランスは思いもよらない行動をとるようになるのです。
何もしないフランスとイギリス
ヴェルサイユ条約で定められたラインラント非武装条項を破った時、フランスは戦争には消極的でドイツに対して対抗する姿勢を見せませんでした。さらにイギリスもまたドイツの膨張に対して非常に消極的な姿勢を見せていくようになり、ドイツのラインラント進駐を認めるような発言をしています。もちろんこの行為は明白なヴェルサイユ条約違反。これを何もしなかったことはドイツの行動に拍車をかけることになります。
イギリスの中にはウィンストン=チャーチルのようにラインランド進駐に強硬的になるべきという人もいましたが、しかし国際社会はこのラインラント進駐をみすみす逃し、ヒトラーに膨張を許す時間と勇気を与えてしまいました。
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オーストリア併合
ラインラント進駐はヒトラーからしてもかけの行動でした。しかし、この進駐に成功したことでヒトラーは次々と行動を起こしていくようになります。まずヒトラーは手始めに1938年3月にオーストリアを併合しました。
オーストリアはヒトラーの出身地。さらにはこの当時大ドイツ主義がオーストリアに巻き起こっており、オーストリアはドイツと文化的にも言語的にも非常に似通った地域であるためいっそのことドイツと合併すべきという声が上がっていました。
ヒトラーからしてもオーストリアを併合することはドイツ出身でないヒトラーがドイツのリーダーとなるために必要不可欠であり、オーストリア併合は成し遂げなければならないと考えていたのです。ヒトラーがオーストリアに野心を燃やしていたころのイギリスの首相はネヴィル=チェンバレン。
彼はイギリス国内の不況に対応すべく軍備拡大には消極的で、そのため戦争回避に全力をあげていきその要求を飲む事しか考えていませんでした。イギリスからしたらイギリスの安全さえ確保できれば関係ない。またイギリスからしたら重要なのはドイツよりもソ連であり、ソ連の防波堤になってくれればよいとチェンバレンは考えたのでした。