幕末日本の歴史江戸時代

幕府と藩の関係が覆ったきっかけ「第二次長州征伐」をわかりやすく解説!

長州藩の改革

これで二度目となる幕府の長州征伐。第二次長州征伐では長州藩の状況は前回と全く違っていました。第一次長州征伐では長州藩は朝敵となったことで戦うための武器の購入が禁じられており、また外国から攘夷による報復を受けていたため、貧弱な軍備だったそうです。

しかし今回はその時と全く違い、第二次長州征伐の直前には坂本龍馬や中岡慎太郎の尽力もあってかつて敵であった薩摩藩と薩長同盟を締結させていました。この同盟によって薩摩藩は第二次長州征伐が行われた際は幕府に加勢しないと約束。

さらに薩摩藩が購入していたイギリスの最新武器を長州藩に横流ししており、その最新武器が長州藩にも渡っています。つまり長州藩は前回の違って万全の状態で幕府の長州征伐に対抗することができたのです。

長州征伐の四境戦争

image by PIXTA / 48544692

こうして第二次長州征伐が開始することになりました。幕府は全国各地の藩から兵を動員しており、楽勝と感じたことでしょう。

幕府の軍勢は九州からの小倉口、瀬戸内海にある大島口、広島と接する芸州口、島根と接する石州口の4つの場所から一斉に攻め入って長州藩を一気に降伏させる作戦をとりました。この幕府の作戦に対して長州藩は四つの境に兵を配置。ついに戦いの幕が上がることになるのです。

小倉口の戦い

幕府と長州藩がまず最初に争ったのが小倉口でした。小倉口では小倉藩の小笠原家と熊本藩の細川家といった九州地方の藩と高杉晋作が率いる奇兵隊です。高杉晋作がこの戦いに合わせて騎兵隊と呼ばれる兵隊を育成しており、農民や武士、果ては力士までも動員して近代的な軍隊を形成していました。

それに比べて九州の大名は薩摩藩と佐賀藩以外は近代化をあまり行っておらずさらにはこの二藩が不参加を決め込んでしまいます。その結果藩どうしで争いが起こることになり、小倉口は一気に長州藩の優勢となっていきました。もちろん仲が悪いところと一致団結しているところの力の差は歴然。幕府軍は連戦連敗。さらには九州の幕府の本拠地であった小倉城も奪われてしまい、明治維新まで長州藩の管轄となってしまいます。

大島口の戦い

小倉口で勝利しましたが、幕府軍はめげずに瀬戸内海にある大島を奇襲。長州藩は初めて敗北してしまい、幕府軍に奪い取られてしまいました。しかし、長州藩の軍隊はめげず、高杉晋作が作っていた丙寅丸という軍艦を使って今度は逆に夜襲をしかけました。

もちろん奇襲を成功させていて油断していた幕府軍は大混乱。こうして大島口での戦いは長州藩の奇襲によって長州藩の完全勝利に終わりました。

石州口の戦い

小倉口で勢いづいた長州藩は山陰方面の石州口でも戦闘が行われることになりました。石州口では山陰の諸大名が攻め入ることになりましたが、これに対してのちの日本陸軍の創始者としても知られることになる大村益次郎が立ち向かうことになります。しかしこの地域でも長州藩は優勢に。やっぱり長州藩が持っている武器が最新式だったことが功を奏しました。大村益次郎は幕府の鉄砲が届かないギリギリのラインから鉄砲を撃ち込んでいきあっさり幕府軍を次々と撃破。

大村益次郎の軍勢は島根県にある石見銀山を奪い取り大勝利を収めました。

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