幕末日本の歴史江戸時代

幕末に広まった「尊王攘夷」はどんな思想?わかりやすく解説!

外国人襲撃事件

こうして生まれていくようになった尊王攘夷の考えは日本中に広まっていき、日本各地にて外国人を狙った襲撃事件が起こっていくようになります。

まず、日米修好通商条約を結んだ当事者であるアメリカ総領事ハリスの通訳として雇われたオランダ人のヒュースケンが薩摩浪士に暗殺。また水戸浪士がイギリス大使であるオールコックを狙ってイギリス仮公使館となっていた東禅寺を襲撃。

さらには薩摩藩の実質的なトップとなっていた島津久光の大名行列に割って入った4人のイギリス人に斬りかかり1名を殺害して2名に重症を負わせる生麦事件が起こるようになります。

さらには尊王攘夷が強かった長州藩では1862年に長州藩士の高杉晋作と伊藤博文らが品川御殿山に建築中のイギリス公使館を襲撃。いわゆるイギリス公使館焼打ち事件を起こします。

このように外国人のイメージが悪くなっていた日本人は外国人を襲うようになったのでした。

尊王攘夷と幕府の対立

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こうして尊王攘夷の考え方によって外国人の襲撃事件が起こるようになりましたが、これに対して頭を悩ませていたのが幕府でした。

幕府は外国人の襲撃事件に度々賠償金を支払っており財政が逼迫していくように。さらには日米修好通商条約を結んだ当事者である幕府にも非難の矛先が向けられていくようになり、尊王攘夷はさらに進化して討幕の流れに変わっていくようになりました。

要するに尊王攘夷の考えはいつしか討幕思想にもつながっていくようになり、幕府は対処する必要があったのです。

こうして尊王攘夷に対して対抗していくようになった幕府は尊王攘夷派の武士たちを弾圧していくように。

しかし、これに激怒した水戸浪士らによって井伊直弼は襲撃。いわゆる田門外の変で井伊直弼が暗殺されたことで幕府の勢いが一気になくなっていくようになったのでした。

公武合体との対立

さて、大老である井伊直弼が暗殺されたことで幕府の権威が揺らぎ始めていき、幕府内ではどうにか幕府の権威を取り戻して日本を一枚岩にしたと考えていました。

そこで幕府が思いついたのが公武合体政策だったのです。公武合体とは「朝廷と幕府が協力して強い日本を作り、その後攘夷しましょう!」というもので、幕府と朝廷の関係を改善して幕府の権威を立て直そうとする秘策でもありました。

幕府は早速公武合体を行うために孝明天皇の妹であった和宮が将軍の徳川家茂と婚約して幕府と朝廷の仲良しアピールをすることに。

さらには公武合体となっていた薩摩藩の後押しとなり、幕府を含めた公武合体が優勢となっていったのです。

以降尊王攘夷派vs公武合体派の構図が出来上がりますが、これに黙っていないのがこの頃の尊王攘夷の代表格である長州藩。

尊王攘夷ではなく、公武合体に進んでいく日本の体たらくを見て、長州藩の活動拠点であった京都に次々刺客を送り込み開国やら和宮降嫁に関係した人たちを「天誅」と称して次々暗殺。

さらには公武合体を推し進めた幕府の老中で安藤信正を坂下門で襲撃する坂下門外の変も起こしてしまいました。

尊王攘夷のぐらつき

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こうして幕末を大きく動かしていった尊王攘夷でしたが、その代表格であった薩摩藩と長州藩はなんといきなり尊王攘夷をやめて討幕へと傾いていくことになりました。

この二藩に何があったのでしょうか?次は尊王攘夷の挫折について見ていきたいと思います。

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