水戸藩の黎明期~徳川頼房の時代~
徳川家康が関ヶ原の合戦で勝利し、ほぼ天下を手中にすると、西軍についた多くの大名が取り潰され、新たに徳川譜代の大名たちが多く全国の要地に配置されることになりました。また、豊臣氏の滅亡後に新たに家康の子供たちが尾張、紀伊、水戸へと配置され、これが徳川御三家と呼ばれるものです。まずは水戸徳川家の藩祖、徳川頼房の時代を見ていきましょう。
秋田美人と茨城の不美人の関係とは?
頼房は1603年生まれですから、江戸幕府の開府直後に生まれたことになります。幼い頃はずっと父家康の側で養育されていて、頼房に水戸25万石が与えられてからも変わることはありませんでした。家康の11男といいますから、かなり晩年になってから生まれた息子でした。
とはいえ頼房が望んで水戸藩主となったわけでもなく、異母兄の松平信吉が病死したことに伴う措置でした。それ以前の水戸は、常陸国の戦国大名佐竹氏が支配していましたが、関ヶ原合戦で日和見の立場を取り、裏で西軍の援助をしていたために嫌われ、秋田へ飛ばされてしまったのです。
ここで面白い逸話があります。父祖伝来の常陸の地を600年にわたって支配してきた佐竹氏。住み慣れた土地を離れる際、腹いせに多くの美人を連れて秋田へ移っていったそう。そのため秋田には美人が多くなり秋田美人としてもてはやされ、逆に美人のいなくなった常陸国(現在の茨城県)ではブスしかいないというので、随分バカにされたのだそうです。茨城県の女性から怒られそうな逸話ですよね。
余談ですが、現在の常陸太田市と秋田市は姉妹都市となっていて、そんな摩擦はないように思われます。
豪放磊落な性格が幕府から嫌われた?
徳川家康の11人の息子たちですが、なぜか粗暴な振る舞いをする者が多かったといえるでしょう。結城秀康や松平忠輝などもそうですし、頼房も若年の頃は手の付けられない暴れ者だったそうです。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて流行していた「かぶき者」の風潮を好み、異様な風体に身を包んで行儀が悪く、節度をわきまえない態度で、たびたび幕府内でも問題になったそう。「殊の外伊達を好み…」と史書にあるように、反抗期特有の「ええ格好しい」が表に現れたものでしょう。
頼房の附家老だった中山信吉は「このままではまずい!」と考え、頼房に対して命を賭して改心するよう願い出ました。この信吉の諫言によって頼房の行状は収まりますが、幕府から警戒される一端となりました。
またヤンチャな逸話はこれに留まりません。ある時、家康が息子たちと共に駿府城の天守閣へ登った時のこと。家康が戯れに尋ねました。
「ここから飛び降りる勇気のある者はいるか?」
すると真っ先に頼房が進み出て、「私が飛び降りましょう」と答えました。
「そうか頼房、お前が何が所望じゃ?」
「私は天下が欲しい。」
家康は訝しげに「しかし飛び降りたら死ぬかも知れぬ。それでも天下が欲しいか?」
すると頼房は胸を張って答えました。
「たとえ死ぬとしても、一度天下を取ったからには名が残りまする。」
あまりに子供らしくない言動に、のちに家康は秀忠を呼び寄せてこう囁きました。
「あれは切れ者じゃが、ゆめゆめ油断するな。」と。
しかしそのいっぽうで家康は「水戸を懐刀とせよ。」と訓示したともいいますし、将軍に何か危急があった際には、すぐ駆け付けられる水戸に身内を置いておく意味があったのでしょうね。
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江戸に定府していた頼房
同じ御三家の尾張徳川家や紀州徳川家と違って、水戸藩は参勤交代を免除されていました。その代わり頼房は江戸に常に滞在することを余儀なくされ、その治世のうち水戸へ下ったのはわずか11回ほどでした。
国元だけでなく江戸においても多くの家臣たちを必要としていたため、その費用は莫大なものとなりました。加増されたものの28万石の身代では賄うのに非常に厳しく、当初から藩財政は逼迫していたといえるでしょう。また農地開墾や治水事業などの藩政に力を入れていたとされていますが、江戸在府の期間が長かったため、国元の藩士たちの功績に負うところが大きいのではないでしょうか。
また頼房は11男15女とたくさんの子宝にも恵まれていて、多くの子供たちが他家へ養子に出されました。そのため頼房の遺伝子が全国各地へと広まることになったそうです。逆に他家から水戸徳川家への養子を認めず、幕末に至るまで藩祖から続く血脈を保ちました。
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家臣思いだった頼房
頼房の頃から那珂川で獲れた初鮭を朝廷に献上するのがならわしになったそうですが、ある時事件が起こりました。
承応2年8月のこと、東海道は岡部宿のとある橋の上で、献上鮭を京へ運んでいた田口茂兵衛という中間が大勢の旗本たちに道を塞がれてしまいました。「献上品を運んでいるのだから通してほしい」と訴えても聞き入れられません。
ついに些細なことから口論となり、乱闘へと発展。田口は旗本たちと斬り合いになり、なんとか12、3人を切り倒すものの、力尽きて槍で刺され息絶えてしまったのです。
その事実を知った頼房は、田口を憐れみ「刀の切っ先があと2、3寸長ければ、こんなことには…」と言ったそう。中間の身分の者には脇差しか許されていなかったため、その後はれっきとした武士と同じように帯刀を許可したそうです。
そして田口の弟に茂兵衛を襲名させ、未亡人となった田口の妻にも扶持米を与えたとのこと。頼房の跡を継いだ光圀の代になっても何かと面倒を見ていたそうです。
筋目を重んじる水戸のご老公~徳川光圀の時代~
最近はなかなかテレビでも時代劇の放映をしなくなりましたが、時代劇といえばやはり「水戸黄門」が人気作ですよね。水戸藩第2代藩主徳川光圀がモデルなのですが、彼は決して諸国を漫遊していたわけではありません。ましてや関東地方から出たことすらありません。そういったことも含めて詳しく解説していきましょう。
意に反して水戸藩世継ぎとなった光圀の苦悩
1633年、初代藩主頼房がまだ在世中のこと、将軍徳川家光の命で水戸藩の世継ぎを定めることになりました。先ほども登場した附家老中山信吉が将軍の密命を受けて、子供たちを一堂に集めたのです。そのくだりを読んでみましょう。
大猷公(将軍家光のこと)命じて諸子を択ぶ。五月、老臣備前守中山信吉水戸に来り。諸公子に謁しこれを試みる。群公子皆修飾して出で見ゆ。公時に六歳、信吉を見て呼ぶに爺を以てす。直に盤上の打鰒を把りこれに賜ふ。信吉大に悦びて拝受し、公を抱いて曰く、真に吾が郎君なり。すなはち帰りて大猷公に告ぐ。迎へて江戸に至る。十一月、立ちて世子となる。
引用元 「義公行実」より
将軍家光公が附家老の中山信吉に命じて、水戸藩の世継ぎを決めることになった。水戸へやって来た中山は世継ぎ候補の子供たちに謁することになった。
子供たちは皆着飾って自分こそが選ばれるだろうと期待しているように見えた。ところが当時6歳だった光圀公は信吉を見て「じい!」と快活に呼び、皿の上にあったアワビを差し出して「遠慮せず食べるといい!」と言った。信吉は大いに喜んで受け取り、光圀公を抱き上げて「まさに我々の貴公子にふさわしい」と言うや、江戸城へ戻って家光公に「光圀こそ水戸藩を継ぐべき人物」だということを告げた。やがて11月、光圀は世継ぎとなった。
この「義公行実」という伝記を書いた安積澹泊という人物は、光圀股肱の家臣でした。水戸黄門の格さんのモデルになった人物です。多少脚色はあるかも知れませんが、こういったいきさつがあったのでしょう。光圀には頼重という兄がいましたが、兄を差し置いて自分が世継ぎになるということに対して非常に苦悩していたものと思われます。
実際に藩主に就任するにあたって、兄の長男である綱方を自分の養子として跡継ぎにし、逆に自分の実子頼常を兄の養子にしてほしいと言い出しているほどですから。
綱方を養子にするものの、1670年に21歳の若さで亡くなってしまうと、ついで次男の綱條を養子にしました。やはり筋目は大切にせねばならないという光圀の考えが如実に表れているといえるでしょう。
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