幕末日本の歴史江戸時代

黒船の提督「ペリー」は意外と苦労人だった?わかりやすく解説

「日本の歴史の中で、もっとも有名な外国人は?」と聞かれたら、皆さんは何と答えますか?おそらく、かなりの人が「ペリー」と答えるのではないでしょか。幕末から明治にかけての激動の時代を語るうえで欠かすことのできない「ペリー」という人物。いったいどんな人物で、なぜ日本にやってきたのでしょうか。「ペリーという名前はよく知っているけど、どういう人かよく知らない」という人のため、今回は「ペリー」にスポットをあてて詳しく解説いたします。

幕末の日本を揺るがした「ペリー」とは

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軍服を着た大柄で恰幅の良い、鋭い目つきをした強面の男性……。ペリーと聞いてそんな写真や肖像画を思い浮かべる人も多いと思います。人気お笑いコンビ「トレンディエンジェル」の斎藤司のネタを思い出す人もいるかもしれません。誰もが知っているあの肖像の人物は、いったいどんな経歴を持っているのでしょう。ペリーの生い立ちや、日本にやってくるまでの歩みを紐解いてみましょう。

生まれはどこ?職業は?

ペリー提督の名前はマシュー・カルブレイス・ペリー(Matthew Calbraith Perry)といいます。1794年、アメリカ合衆国ロードアイランド州のニューポートという港町で生まれました。

父親が海軍大尉を務めた軍人であったこともあり、ペリーも若くしてアメリカ海軍に入隊。お兄さんが2人いて、兄弟3人とも軍人という、海軍一家の出身です。兄のオリバー・ハザード・ペリーは米英戦争さなかのエリー湖の戦いで功績をあげた英雄として知られています。アメリカで「ペリー提督」と言ったら、概ね兄のオリバーのことを指すのだそうです。

有能な兄に負けじと、我らがマシュー・ペリーも海軍で実績を積んでいきます。海軍の造船所の所長も歴任し、蒸気船の建造にも携わった「蒸気船のエキスパート」でした。後継の教育にも尽力し「蒸気船海軍の父」と呼ばれるまでになりました。

海軍一家に生まれ、英雄と称えられる兄の陰で苦労が多かったのではないかとも言われています。

残されている記録によれば2m近い巨漢だったそうで、上から見下ろすような威圧感で声も大きかったため、部下の士官や乗組員たちから「熊おやじ」などと揶揄されていたようです。

巨大軍艦で日本へ!ペリー提督誕生

ペリーは1846年にはアメリカとメキシコの戦争(米墨戦争)に参戦。軍艦を率いて功績をあげ、着々と昇進していきます。

そして1852年、58歳のときに東インド艦隊司令長官に就任。ペリーは当時のアメリカ合衆国大統領ミラード・フィルモアから、日本開国交渉という役目を仰せつかります。鎖国中の日本に開国を求める重要な任務がペリーに課せられました。

実はこの役、最初は別の軍人に与えられたものでした。しかし出発後にトラブルが起き、急遽、ペリーが東インド艦隊司令長官の役に就くことになったのです。

当時、中国や東南アジアなど東方の国々は、イギリスが幅を利かせていました。当時の中国統一王朝であった清国に進出し、清国の力が衰え始めると、他の西ヨーロッパの国々もこぞって中国や東南アジアへの進出を開始し、東方の情勢は大変混乱していたのです。

東方の情勢をつかみ、中国や東南アジアに経済の拠点を築きたい……。アメリカがその足掛かりとして目を付けたのが、中国大陸との間にある日本でした。

何故日本に?ペリー来航の目的とは

東インド艦隊司令長官就任後、ペリーは当時のアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を携え、フリゲート艦ミシシッピ号が先導する4隻の蒸気船艦隊を率いて日本に向けて出航します。

当時の日本は、ご存知の通り鎖国状態。交易相手は中国とオランダのみで、長崎の出島が窓口という状態でした。

ペリーは大統領の命を受け、日本を開国させるため、一路日本を目指します。

19世紀中頃から、ヨーロッパを中心に世界中に広がりを見せ始めた産業革命。蒸気機関や紡績、製鉄など新しい技術が次々と誕生するとともに、様々な製品が大きな工場で大量生産されるようになります。単に新しい技術が誕生しただけでなく、人々の暮らしや経済のしくみが大きく変わった時期でもありました。

そんな時代の中心にいたのが、産業革命のフロンティア・イギリス。工場で大量生産された製品を売る市場を、中国や東南アジアに展開していました。市場開拓という意味では、アメリカはイギリスや西ヨーロッパの国々に比べるとやや後発。当時、すでに4億人近い人口を抱えていた中国(清国)と、陸続きの東南アジア諸国で市場を開くことは、アメリカの産業革命を成功させるための重要課題となっていました。

しかし、中国や東南アジアの国々はすでに、イギリスをはじめとする西ヨーロッパ諸国に牛耳られています。

日本を開国させ、日本に市場を。

戦争目的ではなく、あくまで通商が主な目的だったのです。

黒船出現!見よ!これが近代国家の姿だ!

8ヶ月ほどの長い航海の後、琉球(沖縄)を経て、翌1853年7月8日、ペリー率いる艦隊は浦賀(現在の神奈川県横須賀市)に出現します。

ペリー来航の数年前にあたる1846年にも、アメリカ東インド艦隊司令官ビドル率いる2隻の船が浦賀に来ていますが、このときは上陸は叶わず、交渉は決裂。今度こそなんとか、日本に開国させなければなりません。

このとき、ペリーにはいくつかの計画(策略)があったと言われています。大型の蒸気船を連ねてやってきたのもその一環。大きな船で寄港することで、力の違いを見せつけ、開国を要求する……ペリーにはそんな思惑があったようです。

目的はあくまでも日本での市場開拓。事をスムーズに進めるため、アメリカの近代国家としての力を示すために、ペリーはわざわざ大型船を編成して日本に繰り出してきたとも言われています。

当時の日本人にとって、船とは主に帆船のことであり、オランダやロシア、イギリスの大型帆船を見たことはあっても、蒸気船の存在はまだほとんど知られていませんでした。

ペリーの狙いは的中。初めて見る黒塗りの蒸気船に日本人は恐れおののきます。江戸幕府はとにかく上を下への大騒ぎ。開国か、追っ払うか。追っ払ったらきっとアメリカと戦争になります。あんな大きな黒い船と戦って、果たして勝ち目はあるのでしょうか。

当時の徳川将軍は12代家慶(いえよし)。病床にあり、このような重大な決断を下せる状態にはありませんでした。江戸幕府はペリーに「将軍が病気なのですぐには返答できない、1年待ってほしい」と返答。ペリー側もこれを了承します。

ペリーは1年後の来訪を約束し、1853年7月17日、江戸湾を離れていきました。

静かなる策士・2度目の日本来航から晩年まで

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圧倒的な存在感を見せつけて立ち去っていったペリーと黒船。計画通り、巨大蒸気船は日本人の記憶に強く深く刻まれました。その後の江戸幕府はどのような対応を取ったのでしょうか。その後の動きを追ってみましょう。

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