中国の歴史中華人民共和国

中国発展の要因となった「改革開放」とは?わかりやすく解説!

今ではアメリカに次いでGDPが高い国として知られている中華人民共和国。この国は元々社会主義というあまり経済発展が望めない国としても知られていました。 しかし、とある政治家が社会主義経済を大きく転換させたことで中国は大きく発展を遂げることになるのです。 今回はそんな中国の発展を決定づけた改革開放に次いで見ていきたいと思います。

改革開放以前の中国

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1949年に成立した中国では毛沢東によって計画経済が敷かれていき、改革開放が行われるまでの中国はゴリゴリの社会主義経済を推し進めていました。

そんな中国がどうして転換を行うことになったのでしょうか。それにはこの当時行われていた中国の政策の失敗から来ているのです。

社会主義国の計画経済の下に

1949年に国共内戦に勝利した中国共産党が蒋介石率いる国民党を台湾に追いやって中華人民共和国が建国されると中国共産党はいわゆる社会主義経済の構築に乗り出していくことになりました。

中国共産党は重工業を中心とした計画経済に乗り出していくようになり、いわゆる政府が主導した計画で工業を行っていくことになります。その結果中国は第1次五カ年計画でソビエト連邦型の計画経済を模倣し重化学工業への投資を行い経済成長を達成したんだとか。さらに農民の地域には人民公社という国営の農業団体を創設して農業の集団化を推し進めていくことになりました。

大躍進政策の大失敗

こうしてある程度の経済を構築することに成功した中国。しかし、リーダーである毛沢東はソ連に次ぐ社会主義国家の建設のために1958年からアメリカに次いで工業力が当時世界2位であったイギリスを追い抜くために大躍進政策とよばれる計画の遂行を指示しました。

大躍進政策ではこの当時重要視されていた鉄鋼の生産を推し進めていき、イギリスに並ぶ鉄の生産国になろうと人民公社を通して農民を大量に動員して鉄鋼の増産が行わせました。

しかし、鉄の生産には色々な技術が使われるのに毛沢東の主導による大増産キャンペーンが全国で行なわれた結果、知識のない人たちが色々な屑鉄を原始的な方法で作るという無茶苦茶な増産計画が行われてしまいます。

その結果中国で生産された鉄のうち60パーセントが全く使い物にならない粗悪品だったんだとか。

しかし、官僚たちはこの計画を伝えることはなく、伝えるのは良い報告のみ。その結果無茶苦茶な生産体制がしばらくの間使われるようになってしまい農業の生産高は急減少。資源を大量に浪費する結果となり、さらに鉄鋼生産に伴う環境破壊は農業生産量の減少を引き起こし、最終的には数千万人の餓死者を生み出し失敗に終わったのでした。

この責任をとって毛沢東は国家主席を辞任。その後劉少奇や鄧小平といった現実的な政策を行う人たちが台頭していき、中国の経済は安定し始めていくようになるのです。

文化大革命の混乱

こうして安定し始めていくようになる中国でしたが、毛沢東は劉少奇や鄧小平の政策を見て、これは「社会主義の堕落であり、資本主義に変えようとするもの」と批判。劉少奇と鄧小平を追い落とすために「封建的文化や資本主義文化を打破して、新しい社会主義文化をつくる」いわゆる文化大革命を行っていくようになりました。

文化大革命では中高生ぐらいの子どもたちが紅衛兵として毛沢東を崇拝するように仕向けて「造反有理」(造反する者には理由がある)をスローガンにいわゆる劉少奇と言った社会主義に反するものたちを次々と倒していきます。彼らは旧体制の象徴だったらなんでもつぶしていき仏像を破壊し寺に火をつけ重要な文化財も次々と破壊していくようになりました。

文化大革命に歯向かう者たちを「反革命分子」と呼んではつるし上げ、首からプラカード、頭に三角帽子を被せては市中を引き回して紅衛兵からリンチされる始末。劉少奇はこの紅衛兵によって軟禁されてしまいのちに死去。鄧小平も失脚することになりまた。

しかし、この文化大革命によって中国は未曽有の大混乱に陥り、最終的には紅衛兵同士の派閥争いまで激しくなって内ゲバに発展。政治でも「四人組」を中心とするどす黒い権力闘争によってめちゃくちゃになってしまいます。

毛沢東はこの状態を見て紅衛兵たちを地方に飛ばして争いをなくすために下放されたりしたことで次第に鎮静化。しかし、文化大革命によって中国はほとんど崩壊状態となってしまい経済活動も停滞することになりました。

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