幕末日本の歴史江戸時代

幕末に広まった「尊王攘夷」はどんな思想?わかりやすく解説!

薩英戦争

尊王攘夷をはじめに不可能だと悟ったのが薩摩藩でした。薩摩藩では1862年に生麦事件を起こしてイギリス人を殺害してしまいましたが、これにイギリスは抗議。イギリスは賠償金と犯人の引き渡しを要求しましたが、薩摩藩は断固として拒否。これにブチギレたイギリスは1863年に艦隊を率いて薩摩藩の本拠地である鹿児島に襲撃。いわゆ薩英戦争と呼ばれる戦争となりました。

この当時のイギリスは世界最強。アヘン戦争の時に清を見事に打ち破ったイギリスの艦隊が鹿児島に来襲したことで鹿児島の人々はビックリ仰天しましたが、薩摩藩は意地を見せて善戦していき、最終的には引き分けという形で薩英戦争は終結しました。

この戦いでイギリスは薩摩藩を大いに評価していき、イギリスと薩摩藩はかえって友好ムードとなりましたが、薩摩藩はこの戦争をみて尊王攘夷は不可能だと悟ることになります。

こうして尊王攘夷を不可能と知った薩摩藩は討幕へと変わっていくことになりました。

長州藩の挫折

一方で長州藩は薩英戦争なんて知らんがな。外国の脅威を知らない長州藩は本気で攘夷運動を行っていくようになります。

長州藩は幕府や朝廷に攘夷の許可をもらって外国船を打ち払おうと計画。軍艦を用意して長州藩の重要拠点である下関海峡を封鎖していくようになります。

長州藩はまずアメリカの商用船のペンブローク号を砲撃。5月23日には下関の沖に停泊しているフランスの軍艦のキャンシャン号にも砲撃を行なって、5月26日にはオランダの軍艦であるメデューサ号に対し砲撃を行ないます。

この一連の外国船の砲撃事件は下関事件として知られることになりました。

しかし、この突如とした攻撃に怒ったイギリス・アメリカなどは砲撃事件の報復でギリスが中心となってアメリカ、フランス、オランダと4ヶ国で武力行使に出ることにしました。

外国船が砲撃された3ヶ月後の1864年の8月に4ヶ国はそれぞれ軍艦を率いて長州へ攻撃を行います。長州藩も奮闘したものの、外国との戦力差は歴然としたものであり、あっさり下関の砲台を占拠されることになりました。

さらには時を同じくして孝明天皇が長州藩の勝手な行動についに怒り、八月十八日の政変と禁門の変によって京都から追放。結果的に第一次長州征伐を招くことになってしまい、尊王攘夷派はついに孤立するのでした。

尊王攘夷から尊王倒幕へ

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尊王攘夷は幕末の一大勢力となりましたが、その中心地であった薩摩藩と長州藩はそれぞれ外国との戦争を通じて歴然とした差を見せつけられることになりました。

長州藩では第一次長州征伐によって幕府に降伏。その後に再び尊王論を掲げることになりましたが攘夷は行わなくなっていきました。

さらには薩摩藩も攘夷をするのではなく、イギリスなどから最新武器を購入することで近代化を果たしていくようになります。そして薩摩藩と長州藩は日本全体が近代化をしなければならないと考えていくようになり、頼りにならない幕府は倒すべき、つまり倒幕の思想が芽生えてきたのです。

そして時代は薩長同盟、そして倒幕に傾いていくことになるのでした。

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