ロシアによるポーランド支配
ロシアはナポレオンが出した対イギリスの貿易禁止である(大陸封鎖令)に違反し、イギリスと穀物貿易を続けていました。ナポレオンはロシアを大陸封鎖令に従わせるため、ロシア遠征を開始します。
序盤、ナポレオン軍はロシア領深くまで攻め込みました。しかし、冬になると状況が一変。ナポレオン軍は寒さと飢えで大打撃を受けます。
ロシア遠征に失敗したナポレオンは勢いを失い、イギリスやロシア、プロイセン、オーストリアの連合軍に敗北。ナポレオン敗北後に開かれたウィーン会議において、ワルシャワ大公国は消滅しました。
かつてのポーランド王国の地にはポーランド人の国家であるポーランド立憲王国が作られました。しかし、ポーランド立憲王国はポーランド人の国とは言えません。なぜなら、ロシア皇帝がポーランド王を兼ねていたからです。
幾度も繰り返されたポーランド反乱
1830年、フランス7月革命が起きるとポーランドでも、自由を求める反乱が起きました。反乱はワルシャワを中心に拡大し、一時は議会の成立を宣言するまでになります。しかし、ロシア軍の介入により、ポーランドの反乱は鎮圧されてしまいました。
1848年、フランスの二月革命をきっかけに、各国で革命運動が起きる「諸国民の春」とよばれる自由主義・民族主義の運動が起きます。ポーランドでもロシアからの独立を目指す民族運動が起きましたが、この時もロシアによる弾圧で運動は失敗に終わりました。
19世紀中ごろ、クリミア戦争で敗北したロシアは国内の近代化を目指します。アレクサンドル2世は近代化の一環として農奴解放令を発布しました。これをきっかけとして1863年にポーランドで大反乱がおきます。反乱に対しロシア帝国は徹底的な弾圧を加えました。以後、ロシアはポーランド人にロシア語を強制するなど圧力を強めます。
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ポーランドの独立回復
何度も反乱を起こしては、ロシア帝国によって厳しく弾圧されるポーランド。彼らに独立のチャンスが訪れたのは第一次世界大戦の時でした。1917年、ロシア革命が勃発。ポーランドを厳しく支配してきたロマノフ朝が滅亡します。
新しくロシアの指導者となったレーニンは、第一次世界大戦から離脱するため、ドイツとの間でブレスト=リトフスク条約を締結し、ポーランドを含む東部領土を放棄しました。一方、ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となり、ロシアから獲得した領土を獲得できません。
ドイツの降伏により第一次世界大戦は終結。ポーランドを含む東欧諸国の独立が承認されます。さらに、1919年のヴェルサイユ条約でポーランド回廊がポーランドのものなりました。第一回ポーランド分割から140年以上の時を経て、ポーランドは独立を回復します。
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