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世界初の社会主義革命を成功させた「ウラジーミル・レーニン」を元予備校講師がわかりやすく解説

20世紀前半、300年以上にわたってロシアを支配したロマノフ朝が崩壊しました。世にいうロシア革命です。混沌とした情勢の中、革命の主導権を握ったのがレーニンでした。レーニンは反革命勢力や外国の干渉などを退け、世界初の社会主義国家ソヴィエト連邦を建国します。レーニンはいかにしてソ連建国を果たしたのでしょうか。今回は、革命かレーニンの生涯について、元予備校講師がわかりやすく解説します。

ロシア革命以前のレーニン

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ウラジーミル・ウリヤノフ。のちに、レーニンの名で知られる革命家の本名です。レーニンはロシア帝国の物理学者の家に生まれました。父の死後、レーニンは兄とともに革命運動に身を投じます。レーニンは、サンクトペテルブルクで活動中に当局にとらえられ、シベリアに流刑となりました。その地で、レーニンはクルスプカヤと結婚。流刑から戻ると、レーニンはロシア社会民主労働党に参加し、革命運動を続けます。

レーニンの生い立ち

1870年、レーニンはモスクワから900キロ離れたシンビルスクに生まれました。父のイリヤはアジア系の血を引く物理学者で、母のマリアはロシア・スウェーデン系の血を引く人物です。多民族国家だったロシア帝国において、格別珍しいことではありません。

レーニンは六人兄妹の3人目で、姉が一人、兄が一人、妹が二人、弟一人いました。子供のころは成績優秀で、スポーツにも熱心だったと伝えられます。

1886年、敬虔なロシア正教徒だった父が死去しました。もともと、信仰心が篤いといえなかったレーニンは、父の死後、無神論者になります。

このころ、レーニンの兄であるアレクサンドルロシア皇帝アレクサンドル3世の暗殺を試みましたが失敗。兄は絞首刑に処せられました。レーニン自身はカザン大学入学後、学生運動に参加したことで大学から目を付けられ、大学から追放されてしまいます。

シベリア流刑と結婚

大学から追放されたレーニンは、ロシア帝国の内務省から目を付けられる存在となり、コクシキノ村に追放・流刑とされました。

1889年、サマーラ市に移ったレーニンは、社会主義サークルに参加し、マルクス主義にのめりこんでいきます。レーニンはマルクスやエンゲルスが1848年に出版した『共産党宣言』のロシア語訳を手掛けるなど、先鋭的な革命家になっていきました。

1893年、首都サンクトペテルブルクに移住したレーニンは、この地でも社会主義活動に没頭。1894年、のちに妻となるクルスプカヤと出会います。1895年、レーニンは他の活動家と共に逮捕され、シベリアに送られました。1897年、レーニンとクルプスカヤは流刑先で再会。翌年、結婚しました。

ロシア社会民主労働党への参加

19世紀末、ロシアは産業革命の真っただ中でした。産業革命がおきると、資本家と労働者の影響力が強まります。ロシアでも、先に産業革命を達成した国と同じく、資本家と労働者の影響力が強まりました。

ロシアの社会主義運動は、知識人中心のナロードニキ運動から、マルクス主義的団体による社会主義運動へとシフトしていきます。

1898年、ミンスクでロシア最初のマルクス主義政党が作られました。それが、ロシア社会民主労働党です。しかし、結党直後にメンバーの多くがロシア政府によって逮捕され、活動が停滞しました。本格的に活動を再開するのは、1903年になります。

1903年の大会で主導権を握ったのは機関紙『イスクラ』(日本語に訳すと火花)の発行に携わったレーニンプレハーノフです。

ロシア革命とレーニン

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ロシアの急激な産業革命は、社会に大きなひずみと貧富の差をもたらしました。一方、ロシア社会民主労働党は活動路線や思想をめぐる対立から、ボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂します。第一次世界大戦に参戦したロシアはドイツとの戦いで劣勢となり国民生活が悪化。我慢の限界を迎えたロシアの人々は、ロマノフ王朝を倒します。レーニンは亡命先から帰国し、「四月テーゼ」を発表し革命の主導権を握ろうとしました。最終的に、レーニンは十月革命でボリシェヴィキ独裁への道を開きます。

ボリシェヴィキとメンシェヴィキの対立

ロシア社会民主労働党は、革命の路線・方向性をめぐって二つのグループに分裂しました。一つは、大衆参加の穏健な革命を主張したメンシェヴィキです。

プレハーノフらメンシェヴィキは一気に社会主義革命を達成するのは困難だから、資本家と妥協しつつ、民主主義革命を実行。その後に、社会主義に移行するべきだと唱えました。

もう一つは、レーニンらが中心となったボリシェヴィキ。少数の選び抜かれた専門的革命家集団が、農民や労働者の前に立って活動し、一気に社会主義革命まで突き抜けるべきだと主張します。

党内で多数派を占めていたメンシェヴィキと、党の要職で多数派となっていたボリシェヴィキは活動方針をめぐって激しく対立しました。

第一次世界大戦がはじまると、メンシェヴィキは祖国防衛戦争として戦争を支持ボリシェヴィキ戦争に反対する立場をとります。

二月革命勃発を聞き、封印列車で帰国

第一次世界大戦開始直後1914年8月、ロシア軍はドイツ軍とタンネンベルクで戦い大敗を喫します。ロシア軍はドイツとの戦いで劣勢の状態が続き、国土の多くを占領されました。また、戦争による食糧不足や物価高騰は国民生活を急速に悪化させます。ロシア国民の忍耐は限界に達しました。

1917年3月(ロシア暦2月)、首都ペトログラード(サンクトペテルブルクを改名)で大規模なデモが発生。それをきっかけとしてロシア全土で民衆が蜂起しました。ロシア皇帝ニコライ2世は退位。ロマノフ朝は滅亡します(二月革命)。

ロシア政府からの弾圧を逃れ、スイスに亡命していたレーニンは二月革命の報せを聞き、直ちにロシアに戻ろうとしました。

このとき、ロシアと敵対するドイツはレーニンが帰国することでロシアの混乱が拡大することを期待し、レーニンの領内通過を許可します。レーニンの乗った列車はドイツ領内で他者との接触を禁じられたことから封印列車とよばれました。

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